安来いちご
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安来いちご(やすぎいちご)は、島根県安来市で生産されるイチゴの総称である。
概要
安来のいちごの年間出荷量は約220トン(2015年5月時点)で、島根県内ではもっとも多い[1]。歴史も古く、市場では一律「島根いちご」ブランドで取引されるものの、安来産は県内他地域産のいちごとは異なる選果基準・容器・出荷先を使用してきた[2]。「紅ほっぺ」「章姫」[3][4]「かおり野」の3品種を620アールの面積で栽培している[5]。ペースト状にしたいちごを使った「どじょう掬いまんじゅう」などのスイーツが商品化され、生果がない時期でも販売されている[6]。
特徴
歴史
安来におけるいちご栽培は1935年(昭和10年)頃、東赤江町で始まったが、戦争で中止されていた[9]。商品作物としてまとまった量が出荷されるようになったのは昭和30年代以降である。当初は赤江地区が中心であった。当時は栽培技術が不十分で、収穫作業は5月下旬から6月上旬の限られた短期間に集中的に行う必要があり、この手間が作付面積の拡大を阻んでいた[10]。
当初栽培されていた品種は「幸宝」であったが、兵庫県農業試験場宝塚分場が開発した「宝交早生」を赤江の農家が1966年(昭和41年)に試作した[11]。1967年(昭和42年)にはパイプハウス方式の導入のため、奈良や宝塚など先行導入地域を視察する旅行が農家側の要請で行なわれたが、この視察で安来の農家はこの地域で既に普及していた宝交早生にも注目した[12]。1968年(昭和43年)には農協が親株の移入を行い、普及に努めるようになった[13]。この年には赤江地区でパイプハウスも建築され[14][15]、栽培地区も大塚、能義、宇賀庄、飯梨と拡大していった[11]。
1973年(昭和48年)には萎黄病が発生し、1975年(昭和50年)時点では栽培面積の4割が汚染されていると推定された。宝交早生はこの病気に弱く、農協は土壌の消毒や無病苗の導入、萎黄病に強い品種の導入など、対策を行なった[13]。
出典
- ^ “安来と言えばいちご”. しまねのおいしい食ガイド. 島根県 しまねブランド推進課. 2019年12月24日閲覧。
- ^ 猪俣 1977, pp. 183–184.
- ^ a b “いちごの豆知識”. 安来市観光協会. 安来市 (2019年9月). 2019年12月24日閲覧。
- ^ “旅ぶら 安来市(島根県)”. 朝日新聞. (2016年2月29日) 2020年1月18日閲覧。
- ^ 酒井建治「じっくり熟し甘さ凝縮 安来イチゴ 出荷本格化」『日本海新聞』2017年(平成29年)12月19日付19面。
- ^ a b “いちごスイーツアラカルト”. 安来市観光協会 (2019年). 2019年12月24日閲覧。
- ^ “探県記 Vol.124 高見いちご縁”. 山陰いいもの探県隊 (2018年4月). 2020年1月18日閲覧。
- ^ a b 土谷武嗣「食彩記 イチゴ 安来 「練乳派」黙らす 熟した甘さ 長期間育成 近郊のみ流通」『読売新聞』2018年3月25日付大阪本社朝刊31面(島根)。
- ^ 安来市誌編さん委員会編集『安来市誌』下巻、安来市、1999年、288ページ。
- ^ 猪俣 1976, p. 119.
- ^ a b 『安来市誌』下巻、289ページ。
- ^ 猪俣 1976, pp. 123–124.
- ^ a b 『安来市誌』下巻、290ページ。
- ^ 『最新園芸特産地ガイド ③中国・四国・九州』誠文堂新光社、1972年、27ページ。
- ^ 猪俣 1976, p. 123.
参考文献
- 猪俣趣「いちご産地の形成過程――安来市の場合――」『山陰文化研究紀要』第16号、島根大学、1976年。
- 猪俣趣「いちご産地の形成過程(Ⅱ)――安来市の場合――」『山陰文化研究紀要』第17号、島根大学、1977年。