利用者‐会話:ૡ
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「GHQ草案手交時の脅迫問題」の改変へのお尋ね
ૡさん、こんにちは。本日久しぶりに「GHQ草案手交時の脅迫問題」にアクセスし、大幅に改変されていることに気が付きました。 「GHQ草案手交時の脅迫問題」の「ノート」には、「この記事は大幅に書直さざるを得ません」とか「不要として削除します」などと書かれています。 そこで教えて頂きたいのですが、これは、ૡさんがwikipediaから「書き直し」や「削除」の権限を与えられたことに基づきやっていることなのでしょうか? わたしはその有無に拘わらず、議論をするつもりですが、まずはこのことにお答えください。--笈野泉(会話) 2016年7月10日 (日) 10:03 (UTC)
- Wikipediaには「誰が書き換えて良い」というような許可という制度は存在しません。Wikipedia:五本の柱などの各方針文書・ガイドラインをよくお読みになって下さい。当該記事については最新の資料が発見される前の議論は当該記事内容として相応しくないと考えます。もし議論の経緯を紹介したいのであれば別項目を作り「◯◯の歴史」という記事名とすべきと思います。最新の資料が無い段階での議論・認識は歴史的なものであり当該項目の最新の資料よりも優先して述べられる事項ではありません。また、歴史的な記述をする項目を設けたとしても問題点があります。松本烝治氏のメモや発言を「聞き間違い」であるとしてありましたが、これは手記というものの位置付けを誤っていると思います。松本烝治氏や白洲次郎氏の手記は速記録では無いし、ホイットニーらの発言録でもありません。喋ったことを一言一句書き取るためには速記が必要であり、そのような技術的手段を用いない手記は必然的に発言者の意図していることを簡潔に書き取らざるを得ません。ですから松本烝治氏はホイットニーの文言を書いたのではありませんから聞き間違いも書き間違いも原理的にあり得ないのです。松本烝治氏の手記の文言とホイットニーの文言が完全に一致するかどうかという聞き取り調査を行った人は何人か居たようですが、その事は松本烝治氏が「聞き間違い」をしたという事にはなりません。政治的意図を持って松本烝治氏だけがでっち上げをやっているのだという印象操作を行おうとしたインタビューにすら見えます。実際、白洲次郎氏と長谷川氏の手記は松本烝治氏の書き取った文意と一致するだけでなく天皇を極東軍事裁判にかけるぞという恫喝があった事は間違い無いでしょう。--ૡ(会話) 2016年7月10日 (日) 11:20 (UTC)
- また、松本烝治氏はそもそも「天皇のpersonを保証しないという文言を用いてホイットニーが発言した」というような主張を一度もしてないと思います。あたかもそのような主張が為されているかのような周囲の人達の質問が印象を作り出しているのであって、それは松本烝治氏の主張ではありません。--ૡ(会話) 2016年7月10日 (日) 11:31 (UTC)
ૡさんに質問します。あなたは、今回、記事の83パーセントに及ぶ削除を行いましたが、なぜそのようなことをしたのか、説明をお願いしたいと思います。「当該記事については最新の資料が発見される前の議論は相応しくない」という考えの下に、「GHQ草案手交時の脅迫問題」の内容を改変したということですが、おっしゃることが良く理解できません。 高柳賢三は、「押し付け憲法」論争は、「GHQ案を日本政府が呑まなければ天皇を戦犯裁判にかける、といったような重大な脅迫によって、この案を日本政府に押し付けたのかどうかが争点であった」と述べています。ページ「GHQ草案手交時の脅迫問題」は、そのような「脅迫押し付け」が事実としてあったかどうか、に焦点を当てています。したがって、1946年2月13日のGHQ案手交の場面から始め、史実に基づいて、諸事実を追いかけて、「脅迫押し付け」が事実であったかどうかを検証しようとしています。高柳発言は1972年の時点です。その後、1976年の白洲・長谷川両人の外交記録公開や1989年(邦訳1993年)の”ケーディスの告白”がありました。段階を踏まないで、いきなり、白洲手記や”ケーディスの告白”に飛んでしまっては、その意味合いが全く不明確になってしまいます。 私もWikipediaの投稿者として、「独自研究はしない」「正確」「中立的な観点」などの編集方針に従いますが、「当該記事については最新の資料が発見される前の議論は相応しくない」という基準はWikipediaの編集方針でしょうか。それをお尋ねしたいと思います。Wikipediaの編集方針ではなく、あなた独自の見解ではないでしょうか。もしそうではなく、それがWikipediaの編集方針だというのなら、根拠を示して下さい。あなた独自の見解であるならば、それを押し付けることは、自由な編集により記事内容を深めて行くというWikipediaの意図に反する編集ではないでしょうか。
また、はなはだ疑問なのは、あなたが記事「GHQ草案手交時の脅迫問題」の定義を変更していることです。しかもこのことにつき、何の宣言もありません。 原文の定義は「重大な脅迫をしてGHQ草案を押しつけた、という事実があったかどうかに係る問題」としています。しかし、あなたは「重大な脅迫をしてGHQ草案を押しつけたという問題」と変更して、記事の趣旨を完全に変えています。なぜここまでの編集を何の宣言もなくやってしまったのか、説明して下さい。編集には説明責任が伴います。もし1週間以内にはっきりした説明がなされなければ、記事を差し戻します。--笈野泉(会話) 2016年7月13日 (水) 05:37 (UTC)
- それだと「高柳賢三の誤解」というタイトルの記事になりますね。過去の人がどういう誤解をしたかは現在の事実に影響をあたえることは不可能です。何か現代の事実を読ませたくない理由でもあるんですか?化学の項目見てください。他の記事を勉強してください。化学の記事を錬金術から記述し始めるというようなことを誰もしていないんですよ。なぜなら化学とは何なのかを知る前に錬金術の歴史なんかを読まされても化学を知りたい人にとってはノイズでしか無いからです。私は錬金術の歴史を述べた後でなければ化学の内容を記述できないというような主張では故意に読みにくくしていると考えますね。ですので高畑がどのように誤解したかはGHQ草案手交時の脅迫問題にとっては歴史的な誤解にすぎないですね。基本的に記述する必要はないし、どうしても記述したかったとしても事実の列挙の後で歴史的な経緯として折りたたみで書くことが許されるくらいですね。錬金術のような価値が有ることも思えませんし。記事タイトルがGHQ草案手交時の脅迫問題であり、最新の証拠が脅迫はあった証拠しか存在しないわけです。ですので脅迫はあったと断定するしかなく、その根拠としてそれぞれの手記を並べる以外の書き方は不可能です。極めてどうでもいい、資料がなかった時代の誤解を最優先にして肝心な証拠が全て出揃った現在の事実を利用者が読むことが出来ないというのは百科事典ではありません。これは歴史読み物ではないので。私はあなたが書いた記事を先頭から全部読ませてもらいましたが、大変面白いものでした。しかし最後まで読まなければ理解できず、しかもその内容に手記の意味を誤解した過去の人の政治的プロパガンダ質問が散りばめられているというのは歴史読み物としても問題があると思いました。手記の文言がホイットニー発言の文言と一致しないなんてのは当たり前であって、そんなのは松本烝治に「天皇のpersonという言葉をホイットニーは使ったか?」と聞いたってノーと言いますし、吉田茂に聞いたってノーと言うに決まってるのです。そして「ホイットニーは天皇のpersonという文言を使ったのだ」を松本烝治も主張していないので、誤記ですら無いし聞き間違いですら無いのです。GHQ草案手交時の脅迫問題に於いて脅迫があったことを論証するには松本手記・白洲手記・長谷川手記・ケーディスの証言以外に不要です。脅迫がなかったとする証言は存在しません。吉田茂は脅迫がなかったなどとは言っていません。吉田茂は「personという文言を用いたか」と聞かれてノーと答えたのみで、脅迫がなかったなどとは言っていません。この時代の閣僚は大変英語に堪能であり、考えることも英語で行ったり、芦田均の閣議メモも英単語を交えて書いたりしています。personとは何を指しているかというと、松本烝治にとって天皇のpersonとは天皇のsystemをなくせという意味ではなく昭和天皇を裁判にかけよという意味と区別するためにpersonと書いたと思われます。率直に言いますと、このことを読み取れないで「personの語を用いたか?」という質問をしている人々はかなり恥ずかしいと思います。単に天皇sysytemではなくpersonという区別を松本烝治はしたかっただけでしょう。GHQに単身乗り込んでいってホイットニーと大喧嘩してくるような松本烝治です。彼が聞き違いをしていると考えるほうが勘違いをしているんです。その、勘違いしている人を取り上げることになんの意味がありますか?私は化学における錬金術ほどの価値もないと思いますね。そしてGHQ手交時の脅迫問題としてはatomic sunshine発言も同等に重要で、この発言はアメリカ側の記録にも残っていますしケーディスが産経新聞の古森記者と行った対談でもケーディスが証言しています。--ૡ(会話) 2016年7月13日 (水) 06:17 (UTC)
ぜひお読みいただきたいガイドラインを挙げます。
- ウィキペディアは何ではないか<<教科書や注釈付文書 ウィキペディアは百科事典的な参照資料であって、教科書ではありません。ウィキペディアの目的は事実の提示であって、主題について教えることではありません。例えば質疑応答や系統的な問題の解法など、教科書のように書かれた記事を作ったり編集したりするのは適切ではありません。そのような内容は姉妹プロジェクトのウィキブックスやウィキソースに属します。これ以外のもの、特に教育よりも情報提供を意図するものについては、ウィキペディアの記事として適している場合もあるかもしれません。>>
- ページの編集は大胆に<<もちろん、「あなたが書いた項目」も、誰かが大胆に修正していきます。それを自分に対する批判だと思わないでください。そもそも GFDLというライセンスを採用しているウィキペディアに投稿するということは「自分の文章が他人によって自由に編集、配布されることに同意する」ことを意味しています。>>
- 過剰な内容の整理<<内容過剰の基準「特に事情がないにもかかわらず、ある特定の状況に関する例示が複数項目記述されているもの。」>>--ૡ(会話) 2016年7月13日 (水) 06:59 (UTC)
- 記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです。記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典(参考文献)―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。
- 論争の余地のない主張を単なる意見として記さない。信頼できる出典によって反論や論争なきものとされた事実の主張であれば、一般的にウィキペディアの意見として記述されるべきです。その言説が異議なき説であることに特に反論が無いのであれば、その主張が誰のものかを記述する必要はありません(しかし出典脚注は検証可能性を満たす助けとなります)。また、その説について論争が存在するかのような表現で記述すべきではありません。--ૡ(会話) 2016年7月13日 (水) 21:51 (UTC)
ૡさん、以後この議論は「GHQ草案手交時の脅迫問題」のノートで行いますので、よろしくお願いします。--笈野泉(会話) 2016年7月14日 (木) 04:48 (UTC)