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目黒競馬場

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目黒競馬場
第1回東京優駿大競走(日本ダービー)
第1回東京優駿大競走(日本ダービー)
施設情報
所在地 東京府荏原郡目黒村
(現在の東京都目黒区下目黒
座標 北緯35度37分45秒 東経139度42分15秒 / 北緯35.62917度 東経139.70417度 / 35.62917; 139.70417座標: 北緯35度37分45秒 東経139度42分15秒 / 北緯35.62917度 東経139.70417度 / 35.62917; 139.70417
開場 1907年
閉場 1933年
所有者 東京馬匹改良会社→東京競馬倶楽部
管理・運用者 日本競馬会東京競馬倶楽部
コース
周回 右回り 1マイル
馬場 土のち芝
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目黒競馬場平面図 スタンドは目黒通りを背にしている。目黒通りを渡った向かい側に厩舎がある。東京競馬倶楽部発行『東京競馬会及東京競馬倶楽部史』1941年より
目黒競馬場


目黒競馬場 (めぐろけいばじょう Meguro Racecourse)は1907年(明治40年)から1933年(昭和8年)まで東京の目黒(現在の目黒区下目黒4-6丁目)に存在した1周1マイルの競馬場。東京・府中東京競馬場は目黒競馬場が移転したものである。1907年創設の日本競馬会(1936年設立の日本競馬会とは同名であるが別団体)が設立し、1910年に東京競馬倶楽部に経営はうつった。

概要

目黒競馬場は1907年(明治40年)に東京府荏原郡目黒村(現在の東京都目黒区下目黒4-6丁目)に開設された馬場の1周が1マイル、総面積64,580坪(約21万㎡。現在の東京競馬場の約1/3の面積)の競馬場である。1907年12月、馬券黙許時代の到来で日本競馬会によって開設された。1908年には馬券発売は再禁止され、東京近郊の4つの競馬会(目黒の日本競馬会・池上の東京競馬会・川崎競馬倶楽部・板橋の東京ジョッケークラブ)が合併して東京競馬倶楽部に移行。東京競馬倶楽部は目黒競馬場を使用して競馬を行った。同年春季からはそれまで池上競馬場で施行されていた帝室御賞典の開催が始まり、翌1911年からは当時の選手権競走ともいえる優勝内国産馬連合競走が創設された。

開場からわずか1年で馬券発売が再禁止されて目黒競馬場は東京競馬倶楽部を主催として競馬を行うようになったが馬券を売れない競馬は不人気で競馬場は閑散としたという。が、大正3年勝馬投票(景品券)の実施、大正12年には競馬法(旧競馬法)の制定で再び馬券が売れるようになり客足も増えていった。

1932年に日本の近代競馬の基幹競走となる東京優駿大競走(日本ダービー)が創設され、記念すべき第1回はこの目黒の地で開催されたなど観客席は満場となる人気を集めていき、競馬開催の規模も拡大していったが、この頃には近隣の宅地化進展によって敷地を広げることや施設の拡充が難しくなっていた。敷地総面積が6万坪あまりしかない目黒競馬場はすでに限界まで拡張されたがそれでも尚、競馬人気の前に手狭になっており、その上、敷地の大部分が借地であり地主からは地代の値上げを要求され、議員からは町の発展を妨げると非難をされるようになるなど、目黒競馬場は存続自体が難しい状況に追い込まれてゆく。

果たして、これら諸問題を解決するためには自前の広大な土地への移転を行うしか方法はないと競馬場側は決断、翌1933年春季の開催を最後に目黒競馬場が廃止され、その役割を同年秋に竣工となった北多摩郡府中町(現・府中市)の東京競馬場に移転させた。

日本競馬会時代

ここでいう日本競馬会は、1936年に成立した全国的な競馬施行体である日本競馬会(日本中央競馬会の元となった組織)とは同名だが別団体である、1907年から1910年まで存続した目黒競馬場だけの競馬会である。

明治39年、馬券発売が黙許されることになり、従来からの横浜競馬場に加え池上競馬場川崎競馬場が企画されていく。明治39年12月に開場した池上競馬場が大成功を収めて多大な利益を上げたのを見て、全国的に競馬場の建設ブームが起きる。東京では池上に続き、目黒や板橋に競馬場が作られた。明治40年、競馬施行団体として日本競馬会、競馬場の建設や設備保持を行う会社として東京馬匹改良会社が設立された[1]。公益法人である競馬会は利益を自由に処分できないので、競馬会と競馬場所有会社を分けて競馬場の所有会社に甚だしく高額な使用料を払う形で自由に処分できる利益を手にしたのである。[2]。もちろん日本競馬会と東京馬匹改良会社は建前は別団体でも実質は表裏一帯の関係である[1]

日本競馬会は松平容大関直彦安田伊左衛門松尾清次郎中山孝一といった人々が発起人になり、会長は岡田治衛武ら、東京馬匹改良会社の創立委員長は園田実徳[1]。しかし、実質的には営利企業の東京馬匹改良会社の園田が経営の実態をにぎり、非営利競馬法人団体である日本競馬会は認可を受けるための表看板に過ぎなかったという[3]

土地は約65,000坪、しかし、その中で借地は53,000坪に及んだ。借地が8割を占めたが東京馬匹改良会社は一般的な借地料の4倍の坪当たりひと月ごとに2銭を払ったので借地はスムースに進んだという。また、競馬場に土地を貸した地主が作業員として働けば高額の報酬も払ったという[4]

完成した目黒競馬場の馬場は長円形の馬場だが、先行する横浜競馬場や池上競馬場の馬場がかまぼこ型の馬場であったのに対して見慣れぬ形の馬場には違和感もあったという[5]。ただし、池上競馬場以降、現代にいたるまで長円形の馬場のほうが普通で、横浜競馬場や池上競馬場のようなかまぼこ型の馬場の方が珍しい。施設は馬見所(スタンド)が1号館、2号館の2棟。1号館は玉座や貴賓席も設けた施設で三階建て、建坪500坪、2号館は900坪である[1]

はじめは出走前の馬の引き回しは馬見所(メインスタンド)前で行っていたが[6]、明治41年5月に馬政局長官通達で下見所(パドック)の設置が義務付られ、出走前の牽運動が義務になったので[7]、1号館と2号館の裏の中間にパドックを設けた[6]

記念すべき目黒競馬場の初回開催は明治40年12月7,8,14,15日の4日間、いずれも土曜・日曜である。寒い日だったにもかかわらず大勢の入場者が入り、清国の皇族も姿を見せている。記念すべき初日の第一レースは内国産馬6頭立、距離は3/4マイル(約1200メートル)で行われ、シラギク号が勝ち、タイムは1分35秒80で一着賞金500円を得る。第二レースは豪州産新馬のレースで9頭立、距離は3/4マイル。勝ったイケヅキ号のタイムは1分30秒で賞金500円を得た。以後、初日には全部で11レースが行われ、内国産馬のレースと外国産馬のレースは分けて行われ、距離も3/4マイルから1と1/4マイルで行われ、最も多いのが1マイルのレースである。賞金は1着が500円もしくは600円、2着は125円から150円、3着には75円が払われた[8]。二日目には竹田宮、朝香宮が訪れている[9]。12月15日の初回開催4日目には入場者は非常に多く場内は雑踏と化し、2号館に至ってはあまりの混雑で階段の上り下りもままならないほどだったという[10]

1907年(明治40年)12月7日、目黒競馬場開設初日の第5競走でベンテン号はレース途中に足を怪我する。明らかに治る見込みのない怪我で、ベンテン号はその場で銃殺された。横浜競馬場から指導に来ていた外国人による処置である。馬の足を縛り間近からピストルで2発、眉間に打ち込み観客の目の前で馬場は血に染まったという。この光景を見ていた観客の中には婦人客も多く、またの皇族もいたという。東京朝日新聞は、馬を苦しみから救うために殺処分すること自体は仕方ないとしても、大勢の観客の目の前で銃殺が行われたことを非行であると非難している[11]。このハプニングからもわかるように当時は日本の競馬黎明期で競馬運営を知っている日本人は少なかったので競馬の運営には横浜競馬場の外国人が加わって指導にあたっている(それは池上競馬場板橋競馬場などでも同様である)。

目黒競馬の第一回開催明治40年秋には185万円、第二回目の明治41年春には天候不順があっても150万円と順調に売り上げをあげた[† 1]

盛況なのは目黒ばかりではなくどの競馬場でもおなじだった[12]、それまでは非合法なものでしかなかった賭博を公然と行えるようになった日本人は一気に賭博の「興奮と熱狂」につつまれていった。仕事を放りだして競馬場に通い詰める者が続出し、身の丈を超えて多額の馬券を買って破産し娘を売る者、店の金に手を付ける者、泥棒に及ぶ者、競馬で財産を失って首を吊る者が現れた。競馬場側も金儲けに走り、粗雑な運営でクレームが続出し観客が暴れる騒動が頻発する。審判や発馬なども不手際が多く観客の騒ぎになることもり、競走で八百長すら行われ、それを嗅ぎ取った観客がやはり暴れる、といった騒ぎが続出した。特に営利目的が露骨で粗末な設備と運営が行われた松戸競馬場では競馬場側が配当をごまかすなどの不正な行為を行い、抗議する観客のクレームをやくざを雇って封殺するなどということにまで及んだ。鳴尾では競馬会の内紛や詐欺などが発覚した。そもそも競馬場の許可自体にも贈収賄の噂すら立った[13][14][15]。政府は場当たり的に様々な規制を行うが効果なく[16][17]、大手新聞を始めマスコミは一斉に競馬を攻撃し、マスコミの攻撃は競馬場のみならず馬券を黙許した政府にも及んだ[18]。馬券への世論の風当たりは強く、1908年(明治41年)10月政府は馬券を禁止する[19]

馬券を売れなくなった競馬場はどこも閑古鳥が鳴く。目黒競馬場1908年(明治41年)秋場所は入場者はわずか数百名、しかも多くは招待客で有料入場者は数十名だったという。閑散とした場内では不正に私的馬券を売ったりしていないか監視する私服警官の姿ばかりが目立ったという[20]。馬券収入がなくなった競馬場は賞金額も大きく減っている。

競馬が世論の指弾の的になり、政府は馬券を禁止するだけではなく、同一地方に複数の競馬団体や利益の抜け穴となるトンネル会社の存在を認めない方針をとった[21][22]。 1909年(明治42年)春、政府は日本競馬会(目黒)、東京競馬会(池上)、京浜競馬倶楽部(川崎)、東京ジョッケー倶楽部(板橋)、総武競馬会(松戸)の5者を呼び合同を促す。総武競馬会(松戸)のみはこれに従わなかったが、総武競馬会を除く4つの競馬会は1909年(明治42年)に合同する仮契約を結んだ。合同して新設される東京競馬倶楽部は各競馬会の資産を総額160万円あまりで購入し、政府は東京競馬倶楽部に20年間毎年8万円あまりの補助金を交付することに決めた[21]

日本競馬会(目黒)、東京競馬会(池上)、京浜競馬倶楽部(川崎)、東京ジョッケー倶楽部(板橋)の4つが合同して出来た東京競馬倶楽部は、1910年(明治43年)6月、地形や交通の便から目黒競馬場を使用することに決め、池上競馬場板橋競馬場は廃止され東京の競馬場は目黒1か所だけになる[23]

東京競馬倶楽部時代

あらたに目黒競馬場を運営することになった東京競馬倶楽部には春秋それぞれ38,750円が政府補助金として交付され、馬券売り上げがないので政府補助金で競馬は運営された(補助金競馬時代)。各競馬倶楽部への政府補助金額は東京(目黒競馬場)38,750円、阪神19,230円、横浜8,750円、函館8,660円、札幌8,660円、松戸7,420円、京都7,420円、小倉7,420円、藤枝7,420円、新潟7,420円、宮崎2,360円[24]。東京は4つの競馬会が合同して出来た競馬倶楽部、阪神は2つの競馬会が合同して出来た競馬倶楽部。目黒競馬場を運営する東京競馬倶楽部への交付金が突出していることがわかる。

東京競馬倶楽部としての初開催は明治43年7月23日皇太子(後の大正天皇)が来場し、4日間の開催で観客800人を集める(競馬場で4日間800人の競馬は閑散としているがそれでも前回よりは増えたという。しかし、第二回目にはまた観客数は減っている。

明治44年秋には当時の重賞競走である優勝内国産馬連合競走が始まる。距離は2マイル、一着賞金は3000円と当時としては高額で、前季の新馬戦でデビューした馬で、新馬戦で1着か2着になった馬、つまり各地の競馬場のチャンピオン同士で争われるレースで天皇賞のルーツの一つになったレースである。この競走は不振で苦しむ競馬にやや活気を与え、馬産家にも刺激をあたえたという[25]

馬券発売が禁止された補助金競馬時代はどの競馬場も閑古鳥が鳴く。そのなかで、1913年(大正2年)宮崎競馬場で勝馬投票券の試みを行う。翌1914年(大正3年)目黒でも勝馬投票券を取り入れる。このときの勝馬投票券は馬券のようなものだが、禁止されている馬券(賭博)と見なされないように現金で払い戻さず、当たった勝馬投票券は商品券で払い戻し。販売は入場券についた投票券(1円の1等入場券には投票券2枚、50銭の2等入場券には1枚)で投票し商品券の額も払い戻し枚数も制限があり、当たり投票が多いと抽選になる。当たりには50人までに限りデパート商品券5円が交付された。勝利馬を当てた人が多ければ商品券は抽籤になる。大正5年からは少し改正され1着馬を当てた人が多ければ額を減らす代わりに商品券の枚数を増やした[26][27]。いわゆるオッズは最高で5倍(のちに10倍)で買える枚数も1-2枚というもので、明治末や現代の馬券と比べると面白味は無いがそれでも勝馬投票実施で少しは入場者も増えている。

競馬会会員も義務である抽籤馬引き受けを渋り大正3年には抽籤馬を引き受けなかったとして8名が除名され、大正4年には抽籤馬申し込みは予定の半分であったという[28]

閑古鳥が鳴いていた競馬場も勝馬投票実施ではやや客足が戻り、1万人程度が集まるようになり、とくに障碍競走を始めた大正4年には17,863人の観客を集めた。大正7年からは速足競走も始まっている。

競馬関係者は政府に馬券の復活運動を推し進めていたが、大正12年、ついに競馬法(旧競馬法)が成立し制限付きながら現金で払い戻す馬券(名称は勝馬投票券のまま)の発売が認められる。 この競馬法(旧競馬法)では勝馬投票券は一人一レースに付き一枚までしか買えず、券額面は5円以上20円まで、そして勝馬券への払い戻しは最高で10倍までとなっていた(つまり大穴馬券は無い)[29]。無制限に馬券(現代でも正式名称は勝馬投票券である)を買え配当にも上限がない現代の競馬からみると制限が大きいが、それでも晴れて賭博が出来るようになっている。

大正12年の競馬法(旧競馬法)の成立で日本の競馬は盛り上がる[30]。商品券で払い戻す勝馬投票券時代は目黒競馬場の入場者数は1万人を前後していたが、現金払い戻しの勝馬投票券を売れるようになった大正12年以降は客も増え続ける。昭和4年春からは1場所の開催日数が4日間から6日間に増え、昭和7年秋からは8日間開催になる[31]

日本の競馬は競馬場ばかりではなく、生産者も含めて充実してきたので、機が熟したとして東京優駿大競争(日本ダービー)が目黒競馬場で昭和7年から始まっていた。日本競馬の父と呼ばれる安田伊左衛門はかねてから日本ダービーの構想を持っていたが、以前にはサラブレッドの生産牧場は小岩井農場下総御料牧場しかなかったのでダービーのような大レースは時期尚早とされていた。それが近年の競馬界の充実で可能となったものである。目を見張るような高額賞金のレースは全国のホースマンに衝撃を与えた。以後、日本の競馬の発展は加速していく[32]

競馬は人気を集めていくが、拡大していく競馬の規模に総坪数6万5千坪しかない目黒競馬場は手狭となっていた[30]。 競馬場の周辺は急速に都市化が進み、競馬場を拡張しようにも土地の手当てがつかず、また、都市化が急速に進む中では競馬の開催にも支障をきたしかねなくなっていた[30]。借地が大部分を占める目黒競馬場は周囲の都市化で借地料の高騰が不可避にもなっていた[33]

このため、東京競馬会は府中に広大な土地を求め、目黒競馬場は昭和8年秋に移転して東京競馬場となっている[30]

その後

東京競馬場で開催される「目黒記念」は目黒競馬場の名を後世に残すために1932年に創設されたもので、以来現在まで続く伝統のレースとなっている。他にもかつての競馬場や所在地を後世に残すために創設されたレースは鳴尾記念(阪神)・関屋記念(新潟)・根岸ステークス(東京)がある。 跡地は住宅地化されているが、当時の外周道路の一部が路地となって残っている。また、目黒通りに沿って走る東急バスの黒01、02、06、07系統、東98系統、渋72系統に「元競馬場前」という名称の停留所がある。

  • バス停から20mほど離れたところに当時の大種牡馬トウルヌソルの銅像がある。この銅像は、第50回日本ダービーを記念して、日本中央競馬会と大鳥前元競馬場通り商店街振興組合の協力で1983年11月に建てられたものである。

年表

  • 1907年(明治40年)3月 日本競馬会設立許可
  • 1907年(明治40年)12月 第一回目黒競馬開催
  • 1908年(明治41年)4月 第二回目黒競馬開催
  • 1908年(明治41年)10月 馬券禁止
  • 1910年(明治43年)5月 東京競馬倶楽部設立許可
  • 1910年(明治43年)7月 東京競馬倶楽部としての第一回競馬 以後春秋に各4日間開催
  • 1911年(明治44年)11月 優勝内国産馬連合競走開始
  • 1913年(大正2年)1月 厩舎の火事で競走馬22頭焼死
  • 1914年(大正3年)11月 勝馬投票実施(商品券で払い戻し)
  • 1914年(大正3年)11月 障碍馬場新設・障碍競走開始
  • 1918年(大正7年)11月 速足競走開始
  • 1923年(大正12年)4月 競馬法(旧競馬法)成立。勝馬投票券(現金で払い戻し)発売開始
  • 1924年(大正13年)5月 1号館(一等席)及び厩舎改築、障碍馬場改築
  • 1925年(大正14年)4月 2号館(二等席)・投票所(馬券売り場)払い戻し所改築
  • 1925年(大正14年)11月 秋の最終日、レース結果(第八競走で一着馬が失格)をめぐり群衆が騒ぎ翌々日までもめる。
  • 1926年(大正15年)11月 繋駕速歩競走(トロットレース)開始。場内掲示板新設
  • 1928年(昭和3年)4月 出馬投票を前日締切即日開票翌日発表を実施
  • 1928年(昭和3年)10月 昭和天皇即位にあたり臨時開催
  • 1929年(昭和4年)4月 今期より6日間の開催になる
  • 1929年(昭和4年)11月 アングロアラブ系抽籤馬競走実施。出馬表を観客に配るようになる。
  • 1930年(昭和5年)4月 東京優駿大競走(日本ダービー)創設を発表
  • 1930年(昭和5年)7月 府中への移転の準備開始
  • 1931年(昭和6年)11月 今期より8日間の開催になる
  • 1931年(昭和6年)11月 従来の単勝式に加え複勝式馬券も発売する。
  • 1932年(昭和7年)3月 府中の建設が始まる
  • 1932年(昭和7年)4月 東京優駿大競走(日本ダービー) 第一回を開催
  • 1932年(昭和7年)4月 目黒記念競走を創設
  • 1933年(昭和8年)5月 第二回日本ダービー。目黒競馬場最終開催で8日間の入場者数が初めて8万人を超える
  • 1933年(昭和8年)8月 事務所を府中に移転。目黒競馬場閉鎖
  • 1933年(昭和8年)11月 府中での初開催[35]

目黒競馬場のデータ

日本競馬会時代[† 2] 
元号   年度  季  日付  開催日数  競走回数 入場者数  賞金額 馬券発売  馬券売上  出走数 備考
明治 40 12月7,8,14,15 4 44 31,619 約1,850,000 92
41 4月12,13,18,19 4 44 20,888 48,400 1,507,560 107 初日は雪の為順延。日・月・土・日の開催になった
12月11,12,13 3 30 数百名 13,250 × 0 88 馬券禁止
42 6月11,12,13 3 32 8,980 × 0 73
開催せず
東京競馬会倶楽部時代[31]
元号   年度  季  日付[† 3]  開催日数  競走回数 入場者数  賞金額 馬券発売  馬券売上  出走数 備考
明治 43 7.23-31 4 40 491[† 4] 32,050 × 0 81
11.12-20 4 36 384[† 5] 29,305 × 0 107
44 5.20-28 4 42 33,050 × 0 121
11.4-12 4 42 33,800 × 0 120
45 4.13-21 4 44 32,425 × 0 107
11.16-24 4 42 36,350 × 0 128
大正 2 4.19-27 4 40 32,100 × 0 115
11.15-23 4 41 34,960 × 0 120
3 6.27-7.5 4 40 22,000 × 0 100
11.7-15 4 39 12,845 26,215 [† 6] 93 勝馬投票開始。現金ではなく商品券で払い戻し
4 5.1-9 4 38 14,148 22,975 115
11.20-28 4 39 17,863 27,070 101
5 4.29-5.7 4 39 14,385 21,440 85
11.5-12 4 39 10,811 27,310 95
6 5.5-13 4 39 12,410 21,590 80
11.10-18 4 39 13,051 27,150 104
7 5.4-12 4 39 14,651 25,610 87
11.9-17 4 40 13,586 26,240 102
8 4.26-5.4 4 39 11,586 24,720 86
11.15-23 4 40 10,434 25,595 82
9 4.24-5.2 4 39 8,813 24,425 74
11.13 4 40 8,141 23,710 82
10 4.30-5.8 4 39 7,638 35,215 66
11.12-20 4 40 12,926 36,580 83
11 4.15-23 4 37 9,954 24,770 78
11.4 4 39 11,022 26,760 71
12 4.28-5.6 4 37 11,737 24,150 70
12.15-23 4 40 16,065 48,690 930,380 77 競馬法制定。馬券発売許可
13 4.26-5.4 4 44 19,106 64,641 1,290,840 75
11.15-23 4 44 27,647 91,253 2,046,660 99
14 5.9-17 4 40 24,407 99,978 1,946,540 91
11.22-29 4 52 31,270 145,261 2,648,560 124
15 5.1-9 4 44 31,853 2,410,220 112
11.20-28 4 44 35,767 134,846 2,518,660 99
昭和 2 4.30-5.8 4 44 32,899 128,960 2,440,220 106
11.19-27 4 46 41,240 140,836 2,962,820 119
3 4-28-5.6 4 46 38,663 14,4231 3,057,900 116
10.13-17 4 41 41,499 136,361 2,775,280 93 大礼記念競馬(昭和天皇即位の礼に伴う臨時開催)
11.24-12.5 4 45 37,839 138,124 2,766,400 101
4 4.27-5.5 6 70 54,973 191,962 3,867,600 146
11.16-24 6 74 58,235 201,953 3,393,740 187
5 5.3-11 6 69 55,185 190,256 3,168,360 170
11.15 6 75 59,855 198,861 3,176,800 210
6 5.2-10 6 71 56,533 189,071 219
11.14-29 8 88 67,743 232,345 178
7 4.16-5.1 8 89 72,037 268,560 5,275,020 242 東京優駿(日本ダービー)開始
10.22-11.3 8 88 72,889 233,295 5,094,400 224
8 4.15-30 8 88 84,309 271,890 5,795,800 272
(参考)府中移転後のデータ/一部のみ抜粋
元号   年度  季  日付  開催日数  競走回数 入場者数  賞金額 馬券発売  馬券売上  出走数 備考
昭和 8 11.18-12.3 8 88 106,311 248,115 7,077,220 304 府中移転後の初開催
昭和 9 4.14-29 8 88 95,289 285,750 6,694,760 302 府中移転後の第二回開催
昭和 12 11.21-12.6 8 88 138,319 263,180 9,257,320 302 全国組織である日本競馬会時代
昭和 13 5.21-6.5 8 88 165,203 301,150 1,2698,220 305 日本競馬会時代の第二回目
昭和 15 5.25-6.9 8 88 275,756 324,460 26,739,440 351 太平洋戦争以前の府中競馬場の売り上げのピーク

開催日は開催期間中のおもに土曜と日曜である。

脚注

注釈

  1. ^ 出典は明治40年秋の売り上げについては東京朝日新聞1907年(明治40年)12月17日朝刊6面、明治41年春の売上は東京朝日新聞1908年(明治41年)12月17日朝刊6面および『続 日本馬政史』第二巻、1963年、神翁顕彰会、566頁。
  2. ^ 出典は主に日本中央競馬会『日本競馬史』第3巻、1968年、54-55頁。開催日は東京競馬倶楽部『東京競馬会および東京競馬倶楽部史』第3巻、1941年、目次裏。明治40年秋の売り上げは東京朝日新聞1907年(明治40年)12月17日朝刊6面、明治41年春の入場者数および売上は『続 日本馬政史』第二巻、1963年、神翁顕彰会、566頁。明治41年秋の入場者数は数百名だが招待客が多く、有料入場者数は数十名程度と東京朝日新聞1908年12月17日朝6面では報じている。
  3. ^ 開催日は開催期間中の主に土曜と日曜。
  4. ^ 有料入場者のみ。日本競馬史3巻84頁。
  5. ^ 有料入場者のみ。日本競馬史3巻84頁。
  6. ^ 馬券発売乱の△は現金ではなく商品券で払い戻し、商品券の枚数も限られている競馬法前の勝馬投票券。

出典

  1. ^ a b c d 日本中央競馬会1968、46-48頁。
  2. ^ 帝国1928、580-581頁。
  3. ^ 大江2005、97-98頁。
  4. ^ 目黒1985、45-46頁。
  5. ^ 東京朝日新聞 明治40年12月4日
  6. ^ a b 競馬世界1908-3、46頁。
  7. ^ 倶楽部1941-1、48頁。
  8. ^ 日本中央競馬会1968、48-53頁。
  9. ^ 日本中央競馬会1968、53頁。
  10. ^ 日本中央競馬会1968、54頁。
  11. ^ 東京朝日新聞明治40年12月8日
  12. ^ 日本中央競馬会1969、4-5頁。
  13. ^ 日本中央競馬会1969、3-7頁。
  14. ^ 立川1991、60-63頁。
  15. ^ 大江2005、116-143頁。
  16. ^ 倶楽部1941-1
  17. ^ 尾形1967、50-52頁。
  18. ^ 立川1991、60-67頁。
  19. ^ 大江2005、132-133頁。
  20. ^ 東京朝日新聞1908年(明治41年)12月17日朝6面
  21. ^ a b 神翁1963、740-741頁
  22. ^ 倶楽部1941-1、263-275頁
  23. ^ 日本中央競馬会1968、66-83頁。
  24. ^ 馬匹世界25号、1910年7月、49頁。
  25. ^ 日本中央競馬会1968、84-85頁。
  26. ^ 日本之産馬5巻6号、1915年、29-30頁。
  27. ^ 日本中央競馬会1969、89-103頁。
  28. ^ 日本中央競馬会1968、99頁。
  29. ^ 日本中央競馬会1969、151-153頁。
  30. ^ a b c d 日本中央競馬会2005、488-489頁。
  31. ^ a b 日本中央競馬会1968、177-182頁。
  32. ^ 日本中央競馬会1968、102-105頁。
  33. ^ 日本中央競馬会1968、126頁。
  34. ^ 日本中央競馬会1968、172頁。
  35. ^ 日本中央競馬会1968、171-176頁。

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参考文献

  • 立川 健治「日本の競馬観(1)」『富山大学教養部紀要』 24巻1号、富山大学、1991年。 
  • 大江志乃夫『明治馬券始末』 、紀伊国屋書店、2005年、134-。 
  • 日本中央競馬会 編集『日本競馬史』第2巻、日本中央競馬会、1967年。 
  • 日本中央競馬会 編集『日本競馬史』第3巻、日本中央競馬会、1968年。 
  • 日本中央競馬会 編集『日本競馬史』第4巻、日本中央競馬会、1969年。 
  • 日本中央競馬会『日本中央競馬会50年史』 、日本中央競馬会、2005年。 
  • 東京都目黒区史研究会『目黒区50年史』 、目黒区、1985年、45-46頁。 
  • 堀田至広『競馬及競馬法制史』 、帝国競馬協会、1937年、72-75頁。 
  • 東京競馬倶楽部『東京競馬会及東京競馬倶楽部史』 第一巻、東京競馬倶楽部、1941年。 
  • 東京競馬倶楽部『東京競馬会及東京競馬倶楽部史』 第二巻、東京競馬倶楽部、1941年。 
  • 東京競馬倶楽部『東京競馬会及東京競馬倶楽部史』 第三巻、東京競馬倶楽部、1941年。 
  • 競馬世界社『競馬世界』 第5号、競馬世界社、1908年。 
  • 帝国馬匹研究会『馬匹世界』 (競馬世界を改題)、帝国馬匹研究会。