エホバの証人とホロコースト
ドイツのエホバの証人は1870年から1936年まで迫害されていた。その時代、彼らはエルンステ・ビーベルフォルシェル(誠心聖書研究者)として認識されていた。エホバの証人はナチ党に忠誠を示さず、軍隊の徴兵を拒んだため、ホロコーストの間強制収容所に留置されたのである。もし、国家権力に服従し、軍隊に勤務し、彼らの聖書解釈を「偽りの教理」として退けたら、彼らは自由にされることのなっていた。それにもかかわらず、およそ2,500人のエホバの証人(第二次世界大戦前のドイツ人口の約10%)が、エホバの証人として特別に認識するパープル・トライアングル(紫の三角印)を強制的に付けられ、強制収容所に送られた。エホバの証人すべては失職し、多くが本格的な監獄に送られた。
1921年初頭、政治的、宗教的な党派者がエホバの証人を、政治転覆運動としてユダヤ人に関連付けて告発した。聖書研究者は危険分子、ボルシェビキ、"ユダヤ人のくず"という烙印を押された。その返答として、(今日の「目ざめよ!」誌の前身)「黄金時代」誌、1930年4月15日号のドイツ語版はこう陳述した。「われわれは侮辱としてこの誤った告発を考慮する必要はない。むしろ、ユダヤ人は名ばかりのクリスチャンと同じく価値ある人間なのだと確信している。われわれは、我々の業を福音のためではなくユダヤ人のためであるとして非難しているゆえに、教会のタブロイド版新聞を退ける。」 スイスの神学者カール・バルトは後にこう書いている。「エホバの証人が共産主義者と結託しているという非難は、不本意の、もしくは故意の誤解による以外考えられない」。
ヒトラー政権の明確な敵意があったにもかかわらず、エホバの証人は1933年6月25日、ドイツ、ベルリンで大会を組織した。7,000人もの人が集まった。証人たちは自分たちの態度を公に明確化した。「我々の組織はいかなる意味においても政治的なものではない。我々はただエホバ神の言葉を人々に教え、妨害なしにそうすることを主張する」。1934年、彼らの中立の立場を明らかにする文章の中で、エホバの証人の指導的な立場にある者は、自分たちは「多くの国の人民を搾取し、虐げる手段として大企業を作り上げ、運営してきたのは、英米帝国の営利主義的な考えを持つユダヤ人である」と信じており、エホバの証人は「政治的な事柄には全く関心がなく、むしろ王キリストの下にある神の王国に一身をささげている」とヒトラーに告げた。このグループへの激しい迫害の後、1936年、世界中のエホバの証人がナチ政権を強く非難する決議を送った。
同じ頃、このグループは米国や他の多くの国々で、同様の理由で迫害を受けた。主に、軍隊で働くのを拒み、戦争に協力するのを拒んだというという理由である。ナチのシンパとして非難されたケースもある。同じ頃カナダでは、エホバの証人は政治的な反対者や日系人や中国系の人々と共に強制収容所に抑留されていた。米国では米国連邦裁判所が一連の型となり、エホバの証人に兵役や忠誠の誓いの朗読を免除する権利を与える、憲法修正第一条を発布した。
外部リンク
参考文献
- 『ライオンに立ち向かって―ナチ占領下で良心に従って生きた少女の記録』(シモーヌ・アーノルド・リーブスター著、麻布プロデュース)ISBN 4900710024