谷八郎
谷 八郎(たに はちろう、1922年6月16日-)は、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会に所属した騎手、競走馬調教師。調教師時代に二冠馬ヒカルイマイなどを管理した。長男・谷潔は現在中央競馬調教師。田島良保、田原成貴、幸英明は、それぞれ門下生である。京都府出身(出生地は神奈川県)。旧姓名・宮代 八郎(みやしろ はちろう)。
経歴
1922年、神奈川県中郡二宮町に生まれる。生家は馬車運送業を営みながら、馬主として競走馬も所有しており、幼いころから馬に親しんだ。小学校卒業後、羽田競馬場少年騎手養成所に第1期生として入所。3年の履修後、横浜競馬場の川崎敬次郎厩舎に騎手見習いとして入門した。1942年、日本競馬会で騎手免許を取得。しかし当年末に勃発した太平洋戦争の戦況悪化により召集を受け、終戦まで陸軍近衛師団で過ごした。
復員後、知己であった京都競馬場所属調教師・谷栄次郎の誘いを受け、京都に移る。翌1946年、栄次郎の姪と結婚・婿養子となり、谷八郎と改姓した。以後は騎手として活動したが、大柄で年を重ねるごとに体重が増加していったため、騎手生活の後半は主に繋駕速歩競走に騎乗していた。
1959年調教師に転向し、京都競馬場に谷八郎厩舎を開業。翌1960年春にキンシオーでタマツバキ記念を制し、重賞競走を初制覇。以後散発的に重賞に勝利していたが、1971年、ヒカルイマイで皐月賞と東京優駿(日本ダービー)に優勝し、八大競走制覇を果たした。同馬の主戦騎手は弟子の田島良保が務め、田島は史上最年少のダービージョッキーとなっている。以後、1997年までに重賞を2勝したのち、1998年2月28日をもって定年により調教師を引退した。ヒカルイマイ以外の管理馬に華々しい活躍を示すものはいなかったが、門下の騎手に最大限の機会を与え、また各人の個性を認める姿勢を貫き「必殺仕事人」田島、「天才」田原成貴、「三冠騎手」幸英明といった名騎手を育てた。
通算成績
騎手時代
- 487戦30勝(1954年以降)
調教師時代
通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 出走回数 | 勝率 | 連対率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
平地 | 615 | 680 | 654 | 5,232 | 7,181 | .086 | .180 |
障害 | 49 | 37 | 41 | 224 | 351 | .140 | .245 |
計 | 664 | 717 | 695 | 5,456 | 7,532 | .088 | .183 |
- 初出走:1959年3月7日 1回阪神1日目第3競走 トシオー(3着)
- 初勝利:1959年4月4日 2回京都1日目第2競走 ヨシヒカリ(延8頭目)
- 重賞競走11勝(うち八大競走2勝)
主な管理馬
- キンシオー(1960年タマツバキ記念・春、タマツバキ記念・秋)
- クリバック(1967年小倉大賞典、金鯱賞)
- ペロバック(1968年小倉記念)
- ヒカルイマイ(1971年皐月賞、東京優駿、きさらぎ賞、NHK杯)
- ワイエムアロー(1982年愛知杯)
- ハクリョウベル(1986年中日新聞杯)
主な厩舎所属者
※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
- 田島良保(1966年-1967年、1968年-1983年 騎手)
- 梅田康雄(1975年-1977年 騎手)
- 田原成貴(1978年-1989年 騎手)
- 谷潔(1979年-1994年 厩務員、調教助手)
- 横山雄一(1986年-1999年 騎手)
- 山本康二(1988年-1994年 騎手)
- 幸英明(1994年-? 騎手)
記録
1955年10月22日に行われた阪神第6レースに騎乗。8頭立ての単勝8番人気ながらレースを制した。騎乗したタチバナヒメの単勝オッズは558.7倍で、単勝配当の歴代1位となる。この配当記録はレースから57年半が経過した現在も未だに破られていない[1]。
脚注
参考文献
- 今井昭雄「二冠馬と二人の名手の育ての親 - 谷八郎調教師」(『優駿』1986年6月号〈日本中央競馬会、1986年〉所収)