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王妃 (朝鮮)

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朝鮮の王妃は、朝鮮時代の王の正宮または中宮の位に属する王の妃の身位、またはその身位にある人をいう。敬称は「殿下」であり、品階は定められていない。

一般的には、「中殿」と呼ばれ、その他には「国母」「内殿」「坤殿」「壼位」「壼極」「聖女」の異称がある。

概要

王妃の座に就く事例は様々であったが、基本的には、国が禁婚令を発効し、揀択の手続きを経て、世子嬪に冊封され、後に夫の王世子が王になると、そのまま王妃になる事が通例である。他にも、情勢及び国王在位時に王妃不在の場合は世子嬪を経ずに王妃に冊封されたり、反正によって王子の夫人であった者が、夫が王位に登極することでに王妃に登り、夫が王に追尊され冊封された事例がある。ちなみに正式に王妃の地位にあった者はすべての者の出自は両班出身ほかならない。寝殿は景福宮が正宮の際には交泰殿となり、昌徳宮が正宮の際には大造殿となる。

1894年(高宗31年)12月17日に甲午更張の際に清に対する事大体制を廃止し、独立して王室の儀式を自主国として格を上げ、称号を王后と王太后に改善し、敬称は陛下とした。[1]続いて1897年(光武元年)10月12日の大韓帝国が成立し、朝鮮国王が大韓帝国皇帝と格上げされると、王后も皇后に改称された。そして、1899年(光武3年)12月7日に太祖・荘祖・正祖・真宗・憲宗・哲宗などの王が皇帝に追尊された際、[2]その妃たちにも皇后の諡号が追尊された。。

注釈

  1. ^ "高宗実録" 32卷 高宗31年12月17日 十七日。 總理大臣金弘集、內務大臣朴泳孝、學務大臣朴定陽、外務大臣金允植、度支大臣魚允中、農商大臣嚴世永、軍務大臣趙羲淵、法務大臣徐光範、工務署理大臣金嘉鎭奏: “王室尊稱, 謹具新式以入, 伏候聖裁。” 主上殿下稱大君主陛下, 依允, 王大妃殿下稱王太后陛下, 敬依, 王妃殿下稱王后陛下, 王世子邸下稱王太子殿下, 王世子嬪邸下稱王太子妃殿下, 箋稱表, 竝依允。
  2. ^ "高宗実録" 39卷 高宗36年12月77日。議政府, 以太祖大王廟號望‘太祖’【光啓于禩曰‘太’】‘元祖’【體人長民曰‘元’】‘藝祖’【諡法無】 帝號望‘高皇帝’【肇紀立極曰‘高’】‘純皇帝’【德業粹備曰‘純’】‘烈皇帝’【鴻墓式廓曰‘烈’】 神懿王后諡號望‘高皇后’、‘純皇后’、‘烈皇后’, 神德王后諡號望‘高皇后’、‘純皇后’、‘烈皇后’, 莊宗大王廟號望‘莊祖’【德盛禮恭曰‘莊’】‘光祖’【能紹前業曰‘光’】‘興祖’【聖圖丕振曰‘興’】 帝號望‘懿皇帝’【聖神魂美曰‘懿’】‘昭皇帝’【明德有勞曰‘昭’】‘哲皇帝’【明知淵深曰‘哲’】 獻敬王后諡號望‘懿皇后’、‘昭皇后’、‘哲皇后’, 正宗大王廟號望‘正祖’【內外賓服曰‘正’】‘聖祖’【峻德垂統曰‘聖’】‘敬祖’【戒愼幾薇曰‘敬’】 帝號望‘宣皇帝’【政敎廣布曰‘宣’】‘裕皇帝’【仁聖佑啓曰‘裕’】‘元皇帝’【體人長民曰‘元’】 孝懿王后諡號望、‘宣皇后’、‘裕皇后’、‘元皇后’, 純祖大王廟號望純祖【德業粹備曰‘純’】‘熙祖’【敬德光輝曰‘熙’】‘肅祖’【法度修明曰‘肅’】 帝號望‘肅皇帝’【上岡】‘淳皇帝’【諡法無】‘寧皇帝’【中外向化曰‘寧’】 純元王后諡號望‘肅皇后’、‘淳皇后’、‘寧皇后’, 翼宗大王廟號望‘文祖’【經天緯地曰‘文’】‘德祖’【澤及遐外曰‘德’】‘康祖’【奠安四海曰‘廉’】 帝號望‘翼皇帝’【愛民好治曰‘翼’】‘章皇帝’【法度大明曰‘章’】‘簡皇帝’【治興明肅曰‘簡’】 神貞王后諡號望‘翼皇后’、‘章皇后’、‘簡皇后’, 議定上奏。 竝首望敬依。 又以神貞王后尊號中‘翼謨’, 改以‘懿謨’, 議定上奏, 敬依。