大同法
大同法 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 대동법 |
漢字: | 大同法 |
発音: | デドンボプ |
日本語読み: | たいどうほう |
大同法(デドンボプ)は、1608年に李氏朝鮮で施行された税制。
実施された地域は、平安道、咸鏡道、済州島を除いた地域。この税制は李朝初期からの貢納制による弊害が甚大であった為、改善して施行された。貢納制は農民に田税、軍役とその地方の特産物を貢納、進上を行った。だが、特産物に関わっていない農民は、その地方の特産物を商人から買ったが、商人は特産物の値段を数倍に引き上げるなどして、農民は貧窮を極め、国家の歳入は減少した。
そのため大同法では、基本的に土地1結につき米12斗を収めるようにし、また貢納は対象から外した。また山間部では米の代わりに大同木や大同銭で収めていた。
概要
壬辰倭乱の休戦の翌年、1594年(宣祖27)に領議政柳成龍は国家の食糧難に対し打開策として一年間だけ、代貢収米法(後に大同法)を施行した。1608年5月領議政李元翼はこれまでの弊害が多い貢納制から代貢収米法に改革し、一番壬辰倭乱による被害を受けた京畿道に実施された。その際、大同法、後に宣恵法に改称した。実際には、1569年(宣祖3年)に弘文館校理李珥が代貢収米法(東湖問答)の書類を宣祖に提案していた。
1624年(仁祖2)には、江原道で実施し、1651年(孝宗2)では領議政金堉の提案で全羅道と忠清道でも実施され、1677年(粛宗3)に咸鏡道、平安道、済州島を除く全域で実施される。
税制
まず江原道では、海岸地方は、京畿道の例に沿って、春秋二期に分けて全部で土地1結につき米12斗を収め、山間地方は、土地1結につき米5斗と木棉1匹を収めた。忠清道は最初は土地1結に米10斗を収めたが、後期から12斗になり、全羅道、慶尚道は基本的に土地1結につき米13斗を収め、黄海道は地方税の詳定法と重複して全部で土地1結に米15斗を収めた。
経過
当初は拡大して実施することは難しかった。なぜなら広大な土地を所有していた両班や商人の反対が大きく、全域に施行するまで100年ほどかかった。
とくに忠清道観察使を務めた金堉は1649年 (孝宗1年)11月5日に孝宗に両湖(忠清道、全羅道)で実施するべきと提案した。[1]金堉は光海君時代10年間程停擧(정거)され農業と炭を売って生計を立てていたので、民の暮らしを理解し、一生を大同法に懸けていた。孝宗2年(1651)に領議政されると忠清道にも大同法を施行した。1657年7月全羅道での実施も建議したが、その途中で亡くなった。死後は金佐明などがその意思を引き継ぎ全国的に実施された。
賛成と反対
結果
この税制は貢納をなくし農民の負担が軽減し、商業は発展しつつあったが、一方で問題点としては、農業技術が発展していなかったため、凶作がよく起こり逃げ出す者が増えた。そのため族徴や隣徴などの制度があった。族徴は逃走した農民の親族がその分の税を納め、隣徴は逃走した農民の近所の者が納める制度だが、そのおかげで、村に農民がいなくなった所もある。
脚注
- ^ ○右議政金堉上箚曰: 王者之政, 莫先於安民, 民安然後, 國可得而安矣。 古人有言: “天變之來, 民怨招之也。” 民生苦於賦役, 無樂生興事之心, 則怨氣鬱結, 象見于天, 此必然之理也。 人君遇災而懼, 側身修省者, 非有他道, 只是行保民之政, 使之安其生而已。 大同之法, 均役便民, 實救時之良策。 雖不能遍行於諸道, 畿甸、關東旣行而得力, 若又行之於兩湖, 則安民益國之道, 無大於此者。 卒哭之後, 卽當議定, 而客行適到, 尙此遷延, 今則客使已過, 而廟堂之論, 寂然無聞, 臣竊怪之。 若待臣以會議, 則臣之不幸病伏, 亦誤事之一罪也。 臣所以汲汲於此者, 此事當行於嗣服之初, 年凶則又難行, 而歲運稍稔, 此天借之便也。 明歲之役, 及冬前議定, 乃可行之, 臣之如恐不及者此也。 使臣出而會議, 所言不過如此, 言或可用, 則生民之幸也。 若無可採, 則特一老妄錯料事之人, 將焉用彼相哉? 天下之事, 好相矛盾, 子産所謂: “豈敢謂子面如吾面。” 者, 臣之所深慨也。 古人云: “謀事在人, 成事在天。” 臣之所恃, 獨殿下之天耳, 敢以別幅, 竝獻焉。