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遠藤剛熈

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遠藤 剛熈(えんどう ごうき)は、日本の画家である。

人物

制作の略歴

遠藤剛熈は六十年間、現実の大地に立って、尊厳で永遠な自然に感動し驚嘆し、畏敬の念で接して来ました。二千枚の作品は、自然に直接に対峙して、眼で凝視し、手で接触して、全身全霊をもって制作したものです。小手先の技巧や安易な様式化とは無関係に、厳然とした構成力とリアリティーがある、作品の創造を目的として来ました。 遠藤剛熈は京都の歴史的古典的風土の中で制作し、哲学し、古来からの偉大な精神伝統に立ち帰り、深遠な純粋な美を探究して来ました。又、大地と樹と裸身の人間を描き、自然の実在の生命の根源を凝視し探究して来ました。そうして、大自然と人間の精神の内面の、芸術的宇宙の創造に向って、更なる日々の精進を続けています。

門出と模倣の時代

京都市に生まる。 幼少年時代から絵を描くことを好む。 18歳頃から約10年間東京に住み彫刻の石膏像と人物と静物と武蔵野を描く。

自己の道の探究に就いた時代

京都へ帰り、蹴上と下鴨糺の森を描く。 28歳頃から60歳頃まで東山山麓の南禅寺の禅的環境の中で(お寺の世話になり塔頭に宿る)風景を制作する。大自然の永遠の真実・絶対的なものを求めて絵画の修行、苦行する。自己の絵画の表現形式を発見し確立するまで、五里霧中の努力をする。孤独に沈潜する。菩提心を起す。

それ以後現在まで

50歳頃から洛北の八瀬、植物園、洛西の嵯峨野、嵐山などを描き始める。65歳頃から京都の周辺の北山と南丹の風景を描き始める。 (20代から40代まで肖像と裸体と樹を描いているが)50歳頃から等身大の裸婦像を始める。 60歳頃から大樹の制作を始める。 同時に土、岩、川、庭と池を描く。

油彩画とともに、鉛筆、墨、水彩・油絵具の黒と白の絵画を制作。 自然を探究して6つの技法を編み出す。

2000年秋、遠藤剛熈美術館を公開。

武蔵野美術大学(西洋画科)と佛教大学(佛教学科)を卒業。

展覧会歴

1947~52年 新潟県、京都市中学校絵画コンクール特選2回。京都高校絵画コンクール特選3回。全日本学生油絵コンクール入選。光風会全国展3回入選。学校長表彰。 1963年~ 光風会展と日展に出品。光風会展で4回受賞し会員に。芸術院会員の幹部達に嘱望される。東京の画会の会長の方から京都まで何度も来て、後継者になるように引かれるが就いて行かず、後退会する。以後今日まで一切の地位獲得運動と出世栄達を拒否して、独立自尊の精神を貫く。 1990年~ 大地展、京都府ギャラリー、ギャラリー観、京都府文化博物館、ゴーキ美術研究所主催 1996年 ヴェルヴ展、阿佐ヶ谷洋画研究所の友、橋本博英、遠藤剛熈、中村清治、中山忠彦(生年月日順)の四人の会、ギャルリーEMORI(東京) 2回展から退会。 1999年 初個展、奈良そごう美術館 、奈良そごう美術館主催 「遠藤剛熈画集」文:粟津則雄、木村重信、島田康寛(五十音順)、東方出版 2000年 個展、遠藤剛熈美術館開館記念展 2002年 フランス国民美術家協会展、ルーブル美術館カルーゼル大ホール、日本単独代表招待出品。受賞、協会表彰。 2002年 個展、ギャラリーシマダ(神戸) 2002年 「画家遠藤剛熈」文:加藤周一/画:遠藤剛熈 共著、かもがわ出版 2003年 個展、東大阪市民美術センター、東大阪市主催 個展、三越(大阪) 2005年 個展、フランス、シャルトル市庁舎、シャルトル市姉妹都市友好協会主催、市表彰 2005年 個展、フランス、プレシス・トレヴィーズ゙市トウレル城美術館、プレシス・トレヴィーズ゙市主催、市表彰 2006年 個展、アートフォーラムJARFO(京都) 2007年 フランスサロン総合展招待出品 グランパレ(パリ) 2011年 個展、Gallery Ort Project (京都) 2011年 個展、遠藤剛熈美術館開館十周年記念展

外部リンク