ノート:言語
「自然言語」の記事があるのに
「自然言語」」という記事があるのにここに自然言語の詳細が書いてあるのはおかしくないですか。一般的に「言語」といえば自然言語のことではありますが、「自然言語」という記事がある以上、そちらに統合した方がよいのでは?こちらの記事は「自然言語」と「人工言語」の基本的な部分にのみ触れ、詳細は各記事に任せるように(リンクだけに)したいです。「人工言語」がある程度成長しているのに対し、「自然言語」はスタブ状態ですし。 --Mzm5zbC3 2006年10月15日 (日) 11:57 (UTC)
- 人工言語は現在かれこれ1年近く保護中なので、その前に人工言語の保護解除を、さらにその前に人工言語掲載に関する合意を、と考えています。--グモソ語復帰依頼者 2007年2月17日 (土) 06:05 (UTC)
"自然言語"の項目への統合には絶対に反対です。現状のまま、「言語」の項目に人間が日常話す言語の記事を大きく展開し、「人工言語」や「プログラミング言語」への誘導の節を小さく掲載しておくべきです。 通常「言語」と言えば暗黙裡に人間が話している言葉を指します。それがあまりに当然なことだから、これまでも「言語」の項目に人間が話す言葉の記事が大量に書き込まれてきたわけです。"自然言語"という名称は、プログラミング言語などが近年発達してきたため、それを視野に入れた時に、しかたなしに作り出された比較的薄っぺらな、少々でっち上げ気味な名称です。だから当然のこととして"自然言語"の項目は放置される傾向があるわけです。それでいいのです。ですからそんな名称"自然言語"の項目に、人間の話す言葉、つまり本来の言語、の記事を押し込んではいけません。Wikipediaの各国語版でも、そのような暴挙は行っていません。 --Bonafide 2007年2月25日 (日) 11:38 (UTC)
提案に留まるようなので分割テンプレートを除去しました。 Kzhr 2007年8月31日 (金) 12:46 (UTC)
トク・ピシン語
トク・ピシン語は入れるべきでしょうか? 入れるならどこに?
- Gombe 09:27 2003年2月13日 (UTC)
- 最近できた言語に対しては、語族を求めたりはあまりしない気がします。入れるんだったら英語と同じ印欧語族かと。 Sketch
- ある種「人工言語」かも知れませんけどね。トク・ピシン語は。 - Gombe 02:18 2003年3月4日 (UTC)
バスク語
バスク語などが「孤立語」になっていましたが、孤立語というのは言語学のタームで違うやつを指すので、「系統不明」にしました。あと、日本語と同じく朝鮮語も類縁関係をしっかりと証明できているわけではないので「系統不明」に移動しました。 Sketch 13:29 2003年2月28日 (UTC)
ウェールズ語
ウェールズ語はウェールズでは公用語ですが、「国」ではないので入りませんか?秀の介 13:20 2004年3月17日 (UTC)
- ウェールズは国家であると思うのですが、どうでしょうか。Kzhr 13:31 2004年3月17日 (UTC)
以前は独立国家でありましたが、イギリスが地方公用語として認めているならインドと同様別項目で地方公用語として入れられてはどうでしょうか。ウエールズ語は以前に抹殺されようとした経緯があるし、今ではほとんど話されておらず保存しようと言う動きがあるくらいなので、国としても認めていないのでは?インドでは紙幣にも地方公用語が印刷されています。ロリ 13:40 2004年3月17日 (UTC)
インドの地方公用語
インドの地方公用語はヒンディー語と17の地方公用語では?16と言うのは?ロリ 13:40 2004年3月17日 (UTC)
- 数え間違いですね。Safkan 20:41 2004年4月26日 (UTC)
言語人口の統計などについて
この記事に示されている言語人工や言語が話されている国は、どこから引っ張り出してきたのかを明示することをお勧めします。おそらくエスノローグから引用してきたと思うのですがね。特に言語人口は、既成事実ではなく、誰か(団体や調査チーム)が独自に調査したものです。誰が何年に提示したものなのかをはっきり提示する必要があります。その言語が話されている国、地域も情報源により異なることがよくあります。総合的に判断したのならば、そのように注意書きを施す必要があると思います。
以上のことなどを十分に踏まえて、寄稿者は現行の記事に追付するべきです。
- 強い語調ですが。。。言語人口は私が資料を集め推計した物でした。上記の方の言われるエスノローグと言うサイトからより詳しい人口に変更しました。エスノローグというのは初めて知りましたが、大変参考になりありがとうございました。今後も研究に多いに参考になると思います。ロリ 16:22 2004年4月2日 (UTC)
質問です。「普段話されている」とは第一言語という意味でしょうか?次に人口の数字が他の資料とかなり離れているので確認します。ignatius.eduに少し古いがWebber(1997), Comrie(1998), Ethnologue(1999)の比較が出ている。そこには3社とも日本語は第9位と出ている。(エスノローグの第16版でも第9位) フランス語の話者数は七千万台、ウイキペディアのフランス語にはリンク切れの出典でオーストラリアのフランス大使館が話者は2億人以上と出ている。英ウイキペディア/フランス語では第一言語話者1100万、第二言語も含めて2650~2700万となっている。 エスノローグの第16版では6780万。ヒンディー語も各資料で数値がかなり違う。日ウイキペディア/ヒンディー語4億9千、英ウイキペディア/ヒンディー語1億8千~2億6千、ウルドゥー語も含めて3億5千。その他の言語も当ページの数字がかなり大きい。多言語話者の第二第三言語を含んでいるのでしょうか?であれば「話すことが出来る人口」のタイトルが適当でしょう。ただ第一言語話者の数値も欲しいです。難しい調査対象で大変だと思いますが、確認をよろしくお願いします。--Masaqui 2011年6月9日 (木) 10:00 (UTC)
言語と方言
ほとんど方言関係にある、あるいはほとんど同じ正書法をもつ言語(例えばペルシア語とダリー語)を別の言語として扱うのは、ほとんど方言関係にある言語を全く恣意的に分けてしまっているわけで、まとめてしまうのは一見合理的に感じられるかもしれませんが、私たちが近しい言語をこれはひとつの言語であると纏めてしまう際に働く判断もやはり大変恣意的ではないかと恐れます。例えば、クロアチア語とボスニア語が同一でセルビア語は別の言語ということになっていましたが、どれも文法的には似たり寄ったりです。確かクロアチア語とボスニア語がラテン文字、セルビア語がキリル文字、というところが明確な違いなのでクロアチア語とボスニア語は同じ、セルビア語は別だと主張できるのかもしれませんが、ボスニア語とクロアチア語には正書法自体に(若干の)違いがあり、完全に同一ではありません(せいぜいアメリカ英語とイギリス英語の違い程度ですが)。また、セルビア語とクロアチア語の違いを肯定しボスニア語を国の違いによる言語名のバリエーションに過ぎない否定する立場は、ボスニア語を母語とするボシュナク民族の存在を否定する立場に繋がり、つまりボシュナク人は所詮イスラム教化したクロアチア人でしかないと言ってしまうことになり、非常にデリケートな問題に触れざるを得ません。長々と下手な文章を書きましたが、要するに、こういうことには国ごと言語ごとにいろいろ細かい事情があるので、いちいち斟酌していたら大変なことになるのではないかということで、便宜的に別言語としてカウントしたほうが中立的でしょう。ちなみに、スワジ語とシスワティー語、ツワナ語とシツワナ語はただの別名だったと思っていましたが、違いましたっけ。スワヒリ語の別名のキスワヒリ語というのもありましたね。Safkan 20:41 2004年4月26日 (UTC)
- こんにちは。細かいところまで良く見てくださって嬉しい限りです。概ねその通りです。ボシュナク人と言うのは初めて知りました。ペルシア語とダリー語は方言程度の違いのようですが、国家によって言語の呼称が違うので名称は分けています。>セルビア語とクロアチア語の違いを肯定しボスニア語を国の違いによる言語名のバリエーションに過ぎない否定する立場は、ボスニア語を母語とするボシュナク民族の存在を否定する立場に繋がり・・・・・微妙なところですがこの3言語に関しては少し迷いました。言語の分類に関しては恣意的にならざるを得ません。しかし、この分類が民族の存在を否定すると言うのは理解できません。一つの民族に一つの言語がないといけないのでしょうか?一つの国家に一つの言語がないといけないのでしょうか?別言語扱いすると言うことは元々不安定なこの地域の国家間にさらに壁を作ってしまうと言うことにならないでしょうか?セルビア語に関しても同じ言語扱いにしようかと思ったのですが、仰るように文字が違うのでは公用語の文書として別言語扱いせざるを得ないので分けました。>スワジ語とシスワティー語、ツワナ語とシツワナ語はただの別名・・・・別名だと思います。ただ同じ言語であっても国によって呼称を変えているという事だと思います。ロリ 06:50 2004年4月27日 (UTC)
- 長いだけで内容のない主張にわざわざご返答くださってどうもありがとうございます。ボスニア語とボシュナク人の問題は民族とか言語とかの枠が政治状況によって恣意的に左右された昨今の代表的な事例で実に興味深いものです。そのうち記事にしたいなあと思ってるんですがいつになるやら。
- さて、もちろん、漢民族と回族がそうであるように、複数の民族がひとつの言語を母語としていても不思議はありません。しかし、しばしば言語が民族を分ける指標であるかのように見られているというのもまた事実であり、方言か別の言語かというのは民族当人にとっては非常に重要な問題なのです。ボスニア語とボシュナク人の問題についてはWikipedia英語版の記事や『スラヴ研究』のこの論文も参照してください。なお、この論文を見ればわかるように、ボスニア語とクロアチア語は文字は同じでも公用語の文書として別の正書法を取ることになっていますので、ボスニア語とクロアチア語をひとつと見なすならいっそセルビア語も一緒にさせたほうがよいです。
- また、公用語ではないのでここでは関係ありませんが、私たちの感覚では「方言」である低地ドイツ語やサルデーニャ語のような言語を話している人たちが、あえて自分たちの言葉はドイツ語、サルデーニャ語と別言語であるとして、出版や文芸活動に努力していることも無視できないことです。ある人々の言葉が言語か方言かは、当人にとっては自分のアイデンティティに関わる重要な問題であり、事情を知らない他者があれとこれとは同じだと主張することは大変許しがたい行為に感じられるはずです。
- どうも私が舌たらずでうまく説明できないので、日本で仮定して下手な例え話にします。江戸時代末、ロシアが日本本土に侵攻して津軽藩を占領し、のちに共産党がツガル・ソビエト社会主義人民共和国としてソ連に併合したとします。ソ連は、津軽の日本への変換要求を封じるため、津軽地方の住民は蝦夷の末裔ツガル民族という日本民族であると主張し、我々の言う津軽弁をツガル語なる言語として独自の文法とキリル文字による正書法を整備しました。おそらくロシア語の洪水の前に抽象語彙の面では漢語はほとんど駆逐されてロシア語の借用語に取って代わり、もともと他方言と意思の疎通が困難だったであろう江戸時代の津軽弁は、話者が全く日本語の話者と意思疎通できないほどのツガル語になっていることでしょうが、さらにソ連は東日流外三郡誌を公式の歴史に定め、ツガル語とともに学校教育で徹底的に教え込みました。さて、このような状況で1991年にソ連が崩壊したら、日本の側では当然ツガル民族などフィクションだ、ツガル語は日本語の方言だと考えてツガル共和国を合併しようという機運が高まるでしょう。こんな仮定をした私だってもちろんその立場に与します。さて、その場合、ロリさんなら、安定な境界の壁を取り払おうとする立場から、ツガル語は日本語と方言関係であり同一の言語であるとこのリストでカウントしますよね。しかし、ツガルの側では70年に渡る民族教育の結果、ツガル民族は大和朝廷に反抗した民族で大和民族とは別の民族であると自己認識し、日本の主張は自民族の存立を脅かすものだと考えるに違いありません。そうなると、壁を取り払おうとする善意も単独言語を話す単独民族でありたいと願う人々の主張を無碍に否定する悪意と受けとられてしまいますし、日本語とツガル語は同じであるとする判断は日本の立場に寄りかかったものであり、中立性を欠くということになります。ですからまったく不条理な話ではありますが、そのような場合はひとまず別の言語であるとカウントしたほうがより中立的であると考えるしか仕方が無いと思うのですが、どうでしょうか。
- ちなみに前回は指摘するのを忘れてましたがインドネシア語とマレーシア語もほとんど同じ言語で、しかも正書法がほぼ同じです。ペルシア語とタジク語が同じでインドネシア語とマレーシア語が違うとするのもやはり恣意的だと私は思います。そして、この百数十の言語の中には、私が知らないだけで同じような関係にある言語が他にもあるのではないかと恐れています。いちいち斟酌していられないというのはそういうことでもあります。
- >別名だと思います。ただ同じ言語であっても国によって呼称を変えているという事だと思います。
- ただの別名という書き方が悪かったようです。スワジ語とシスワティー語、ツワナ語とシツワナ語はバントゥー諸語特有の接頭辞がつくかつかないかの違いで、つまるところ同じ名前の別表記だと思うのですが。もっともバントゥー語には疎いので勘違いかもしれないのですが、ロリさんの手元には南アフリカだとスワジ語でスワジランドだとシスワティー語、というようにしている資料、ありますか? まあ、いずれにせよそのうち言語学大事典で調べてこようと思います。Safkan 09:36 2004年4月27日 (UTC)
さらに長文のお返事ありがとうございます。何かすごいフィクションですが、ボスニアとクロアチアは元同じユーゴです。ロシア語と日本語の様に全く違う言語ではありません。お互い民族主義から方言であっても別の言語名にしてしまおうと言うのは仕方ないと思います。仮に日本が東西に分裂して東が東京語、西が大阪語としてしまっても仕方ないでしょう。しかし国が違うから方言的関係を別言語としてカウントするのなら、英語もイギリスとオーストラリアではかなり違う様ですし、ましてやインドの補助公用語である英語と比較するとさらに違うので、これも別言語と分類しなければなりません。北京語と広東語もかなり違うのでこれも別言語として分類しなければなりません。つまり方言的関係にあるものは言語名が違っても同じ言語としてカウントすべきだと思います。方言かどうかの分類は公用語である以上文字言語(表記)が同じであるかどうかポイントだと思います。クロアチア語とボスニア語が正書法が違うということでしたら、別言語としてもいいかもしれませんね。インドネシア語とマレー語が同じであるなら同一言語としてカウントすべきでしょう。100以上ある公用語を分類するのですから恣意的にならざるを得ません。その辺はできるだけ凸凹のないカウントにする為皆さんのご協力を得て少しづつ修正するしかないでしょうね。それと、南アフリカだとスワジ語でスワジランドだとシスワティー語、というようにしている資料ということですが、これはネットでや手もとの資料でいろいろ調べました。資料によっていろいろな書き方をしていますが、恐らくSafkanの言われるバンツー語の接頭辞かなんかだと思います。しかしそれぞれの国によってこのように呼び分けている様です。ロリ 13:36 2004年4月27日 (UTC) 「スラブ研究」を少し読みましたが、ボスニア語とセルビア・クロアチア語は語彙、文法、正書法は全く同じと書いていますが・・・??どうなんでしょう?ロリ 13:52 2004年4月27日 (UTC)
- くだらないフィクション込みの長文にお返事ありがとうございます。さて、おおむねおっしゃる通りで、方言関係をまとめることについて自体はそれもひとつの見解であるという点では私も同意します(ただし、個々の事例に対応できない以上恣意的な操作が加わることを回避し得ず、不条理である、そもそも別の言語であると主張されることが客観的に不合理でも「仕方ない」のだから尊重してやるべきである、という2点の主張は揺るぎません)。しかしながら、今回のご返答は、中盤で私の論理を誤読されているように思われます。すなわち、以下の点です。
- >しかし国が違うから方言的関係を別言語としてカウントするのなら、英語もイギリスとオーストラリアではかなり違う様ですし、ましてやインドの補助公用語である英語と比較するとさらに違うので、これも別言語と分類しなければなりません。
- いいえ。私はそのようには主張したことはありませんし、私の主張を採用してもそのような分類はなされません。なぜなら、イギリスとオーストラリアで英語と呼ばれる言語を話している話者は、お互いの言語が同じ英語であるということを承認し、それぞれ自らの言語が英語であると主張しているからです。イギリス人とオーストラリア人は状況によっては別言語といえるかもしれない方言関係にある二つの言葉の話し手という点ではタジク人とペルシア人と同じ条件にあるわけですが、この事例ではどちらも我々は同じ言語を話していると主張している以上、別の言語であるとカウントする必要はありません。私の意見は、状況によっては別言語といえるかもしれない方言関係にある二つの言葉の話し手が、我々は別々の言語を話しているのだと主張している以上、尊重すべきだという点にあり、我々が同じ言語を話しているのだと主張しているものもまた尊重されるべきであることは意見以前の段階にある当然の前提なのです。
- また、「お互い民族主義から方言であっても別の言語名にしてしまおうと言うのは」とロリさんはおっしゃいますが、そもそもある同系統の複数のことばがお互いの関係において「別の言語ではなく方言である」と判断されること自体に、既に恣意的判断が働いているのだということを忘れないで頂きたいと思います。例えばセルビア語とクロアチア語をひとつにまとめたり、北京語と上海語を別言語としてカウントしたりすることは、恣意的判断により同じ言語、別々の言語と主張されているものを、さらに恣意的判断によりくっつけたり切り離したりしているわけです。これは良いか悪いかではなく、恣意的判断により組み立てられたもののどこに客観性を求めるか、妥協点をどこに置くかという問題になります。繰り返しになりますが、それならば言語話者の恣意はとりあえず尊重してリスト作成者の主観による恣意を廃したほうが便宜的ではあるがまだましである、と私は考えるわけです。もっとも、ロリさんが現状のスタイルこそまったく理に適っておりSafkanは見当違いの愚説を述べていると主張されるのであれば、さきほども申し上げた通り現状のやり方は一つの見解ではありますので、絶対にやめろというほどの要求はできないですが。
- ちなみに、スラヴ研究の論文は「私たちはボシュナク人なんだ、と主張しているボスニアのボシュナク人政権の側はユーゴ時代のセルビア・クロアチア語からやや変化した独自の正書法を制定したが、しかし現実にはほとんど従来からボスニアで使われてきたセルビア・クロアチア語の正書法規範による表記がなされている」と言っています。要するに、客観的事実から言えばボスニア語とセルビア・クロアチア語は語彙、文法、正書法は全く同じに運用されているということなのですが、それならば方言関係の別名言語を1言語としてカウントする立場に立つ場合、セルビア語・クロアチア語・ボスニア語をセルビア・クロアチア語にまとめるほうが良い、ということになりませんか。セルビア・クロアチア語は現にユーゴ時代、ふたつの文字、ふたつ以上の正書法を持ちながらひとつの言語として扱われていたのですが。こちらは強く主張しておきます。Safkan 15:32 2004年4月27日 (UTC)
またもや長文の反論ありがとうございます。こう言った論議ができるのを楽しく感じます。オーストラリアとイギリスや北京語や広東語が強い方言関係にあっても同じ英語や中国語と言っているのは、同じ民族だから支障がないのだと思います。ルーマニアとモルドバの場合同じ民族の場合であっても言語名を分ける場合があります。
>私の意見は、状況によっては別言語といえるかもしれない方言関係にある二つの言葉の話し手が、我々は別々の言語を話しているのだと主張している以上、尊重すべきだという点にあり、我々が同じ言語を話しているのだと主張しているものもまた尊重されるべきであることは意見以前の段階にある当然の前提なのです。
私は言葉の話し手の主張を尊重しないとは思っておりませんので、実際にその言語名を一覧に挙げております。言語名は様々な理由から付けられるものと思いますし、便宜的に全て別言語扱いするのは簡単ですが返って誤解を招く物と考えます。例えば仮に、アルゼンチンの国民がナショナリズムからアルゼンチン語だと言ったとしても客観的に見てスペイン語あればスペイン語と同一言語とすべきでしょう。恣意的であると言ってしまうと、どんな分類でもそう言うことが言えます。他の方の協力を得てできるだけ客観的に同一言語と見なされる言語を分類するのが最良の方法ではないでしょうか。 セルビア語クロアチア語ボスニア語に関してはお詳しい様ですのでお任せ致します。ロリ 17:00 2004年4月27日 (UTC)
- ある言語を言語に分類するか方言に分類するかの基準は、言語学にはありません。現実問題として、詳しく知れば混乱するばかりです。まじめに凹凸をならそうとすると、リストがどんどん奇妙なものになっていくはずです。ウィキペディアは独自の主張をする場所ではありませんよね。
- ある「言語」を独立した言語と呼ぶかは、方言と呼ぶかは、言語差の大小によらず、政治的・社会的要因によります。それを客観的な言語差によるかのように偽装すべきではありません。過剰な思い入れを避け、読者にもリストを過信しないよう注意を促すのが正しいありかたでしょう。
- そしてそもそも公用語等のリストと称するものは、各国政府の主張を集めたものででしょう。ある国の政策や教育は根本から間違いで、本当はこうだ、というような判定をウィキペディアがここでする必要はないでしょう。そういうことは、個別の記事中で触れるべきです。Kinori 17:20 2004年4月27日 (UTC)
ご意見ありがとうございます。
>まじめに凹凸をならそうとすると、リストがどんどん奇妙なものになっていくはずです。
凹凸を放置すると誤解を招くと思います。
>ある「言語」を独立した言語と呼ぶかは、方言と呼ぶかは、言語差の大小によらず、政治的・社会的要因によります。それを客観的な言語差によるかのように偽装すべきではありません。
どう捉えていいのか良くわかりませんが、偽装はすべきでないのは当然ですね。
>ある国の政策や教育は根本から間違いで、本当はこうだ、というような判定を・・・
誰がそのような判定をしているのでしょうか?各国の公用語は全て載っています。ある国の政策や教育は根本から間違いで、本当はこうだ、というような判定は個別の記事でも触れるべきではないです。恐らく仰りたいのは、方言であるか否かの判定は個別の記事で触れるべきだと言うことだと思います。ただそれをすると全体像が見なくなってしまいますし、言語のカウントも意味がなくなります。また政治的、社会的要因で同一言語を別言語とした場合、どれがその言語かが個々の言語を全て開かない限り分からなくなってしまいます。やはり政治的社会的要因に左右されるのではなく、言語学的に見るのが妥当だと思います。ロリ 19:12 2004年4月27日 (UTC)
最近中立性のポリシーについてあれこれ考えていたのでそれとの関連で少しコメントさせて下さい。
言語間のどのような差をどの程度重視するかの判断は恣意的になるでしょうから、政治的な要素は多く入るだろうと思います。口頭でも書き言葉でも互いに意思疎通が困難であればそれらを互いに対する方言ではなくて異なる言語とする確率が高い、などある程度の傾向はあり、完全に政治だけで決まるものでもないだろうという気もしますが。
ただ、その恣意的な判断をそれぞれの文脈、それぞれの話者に委ねておくのか、恣意的であってもある程度一貫した基準で判断することにするのか、というところでロリさんは後者を推しているということでしょうか。客観性という言葉はいろいろ含みがありますが、要するに政治的な要素や民族感情に関わりなく、言語学上の特性を一貫した基準で参照しよう、と。それに対して、感情や政治を尊重する、あるいはそうした事情に干渉しない方針をとる、かつ、いずれにせよ恣意性を免れない基準をどういう形で一貫させるかについてウィキペディアで議論することを避ける、公用語と称されているものを無批判に受け入れることで作成も簡便にできる、というような点を重視してはどうか、というのがSafkanさんやKinoriさんの意見ということでしょうか。
中立的な観点ということで言えば、一貫した基準によるウィキペディア独自の編纂を目指すよりも、無批判に紹介するのが少しだけ中立性が高いということになるんじゃないかと思います。ただ、言語学者の間で比較的合意が成立している、というような事情があれば、(=ウィキペディア独自の編纂でなければ)それを無批判に紹介するのもまた中立でしょうから、ロリさんの目指している方向も中立性を欠いているというようなことでもなさそうです。
こういう場合には、どのような方式を採用するにせよ読者にいろいろと別の観点がある旨の情報が提供されているのが中立性の観点にもかなっているでしょうから、言語学者が言語だけを見るとどの辺りがどの程度違って見えるのか、という類の情報が紹介されているのは、それはそれでいいことだろうと思います。実際参考になりますし。
例えば恣意性や政治的な事情があることはリスト冒頭や、公用語の記事の方にもだいぶ説明がありますが、これは参考になると思いました。
あとは、リストにちょっとした注や解説をつけるというのはいかがでしょうか。話し手の主張なり各国政府の主張なりに沿って分類した場合と、言語学者などの主張を勘案した場合とで差があるなら、簡単なマークを付して「このマークがついている語はお互いに方言の関係にあるか、同一の言語とみなされることも多いが、話し手の間では別の言語とされている」「この印のついた言語の独立性については、当該言語の記事を参照のこと」などなどとしておくと、見るほうとしても学ぶところが大きいように思います。
Tomos 18:19 2004年4月27日 (UTC)
さすがTomosさん、良いご意見を。実は以前マークを付けて少し解説していましたが、同一言語と見なせるなら横に併記したほうが分かりやすく、言語カウントも正確になるので現状のようにしました。どうやらそれに待ったがかかったようです。本来の言語カウントが曖昧になりますが、現状私の意見に沿った一覧になってますので、もしマーク解説がよいと言うことでしたらどなたか変更して頂いても私は結構です。ロリ 19:14 2004年4月27日 (UTC)
- 言語学者の通説の客観性を信頼するからには、いずれ言語学大事典のような依拠する基準にしやすいものを参考に組みなおすこととになります(とはいえ、事典が若干古いものなので問題はありますが)。たぶん、現代ルーマニア語と現代モルドバ語は同じ近代ルーマニア国家が制定した文章規範から分かれてきたもの、セルビア語・クロアチア語・ボスニア語は近代のセルビア民族主義者とクロアチア民族主義者が共同して文章規範を確立してきた歴史をもつものなので同じと言ってもよいということになりそうですが、ペルシア語とタジク語は同じというには微妙になるでしょう。ソ連時代にペルシア語から大きく切り離された正書法が作られた歴史のあるタジク語を認めないと中央アジアのテュルク諸語がひとつひとつ別の言語と言えるかも怪しくなりますから…。まあそのうち暇なときに調べてきます。Kinoriさんのご意見はいかがでしょうか。
- >ただそれをすると全体像が見なくなってしまいますし、言語のカウントも意味がなくなります。
- ちなみにそもそも言語のカウントする意味なんて実は全くないと私は思っているのですが、それを言ってしまうと議論する意味がなくなるので黙ってます。世界の言語の数はエスノローグだと六千いくつだそうですが、実は正確に数えることは不可能だと言語学者も言ってます。Safkan 04:48 2004年4月28日 (UTC)
こんにちは。もちろん方言も含め正確に数えることは不可能でしょう。ここで公用語を取り上げているのはその分類をしやすくするためです。公用語に指定されれば世界中のほとんどの人は自ずとその言語を使うことになります。方言と言える言語が数え切れないほどあったとしても表記に関してはほぼ完全に分類できるでしょう。もっともセルビアやクロアチアの様に2つの表記法を持つ特殊なケースは、言葉がほぼ同じで意思疎通できれば一つとして考えてよいと思います。また方言に関しても学校教育の指導やマスメディアの普及によって統一される傾向にあると思います。そんな中で消滅していく言語も多くあります。元々言語は意思疎通ををとる手段なので、現代の様に交通機関の発達やマスメディアの発達によって人々の行動範囲が広くなると言語もその範囲に応じて便利に統一化されていくのは当然の成り行きなのです。さてここで問題なのは、ほとんど同じ言語であっても、国と言う障壁や民族の違いから言語名が変わるということです。例えば韓国と北朝鮮ですが、本当は一つの国家でありまた同じ言語であるのにそれぞれ韓国語と朝鮮語のように呼んでいるのは、他の政治体制の国家名を冠した言語名は使いたくないからです。逆にスペイン語やポルトガル語の様に他の国名を冠していても全く気にしないケースもあります。前者のような場合をどの様に一覧に反映するのかと言うことです。私は今の一覧の形に注記解説を付けるのが一番分かりやすい方法かと思います。ロリ 07:14 2004年4月28日 (UTC)
- 確かに、世界の主要な言語を言語の分類一覧のように系統によるのではなく、現に公用語として使われているかどうかでリストされているものがあったほうが良いと思いますので今のリストの価値は存分に高いと思います。前回の発言を訂正して、私は世界の公用語を数でカウントすることを疑問視する、とします。これに関しては、世界の国で公用語になっている言語はおおよそ110前後である、とでもしておけば解決するように思いました。
- >もっともセルビアやクロアチアの様に2つの表記法を持つ特殊なケースは、言葉がほぼ同じで意思疎通できれば一つとして考えてよいと思います。
- それで思い出しました。ウルドゥー語とヒンディー語は文字と文章語の語彙が違いますが、口語では意思疎通が容易らしいです。テュルク諸語はチュヴァシ語やサハ語を除くと(=どこかの独立国で公用語になっている限りの全てのテュルク諸語は)話者がお互いに意思疎通できるそうです。ノルウェー語はデンマーク語とスウェーデン語の意思疎通の媒介ができるそうです。言葉がほぼ同じで意思疎通できれば一つとして考えてよいということでしたらこれもひとつの言語なのでしょうか。しかし、これは話に聞いただけで私はその言語の母語話者ではありませんから、真偽を確かめるすべはもっていません。やはりいちいち斟酌していられないという意を強くするものです。Safkan 08:04 2004年4月28日 (UTC)
なるほど、それでしたら表記法による分類で良いのではないでしょうか。と言うと英語と米語にも少しだけ違いはあるぞ、いちいち斟酌していられない、と言われそうですが・・・表記法の僅かな違いなら知ってる人もたくさんいそうですし斟酌できるのでは。ロリ 13:32 2004年4月28日 (UTC)
ざくざく調べて来ました。言語学者が全員先に私が挙げた意見でまとまっている(いた)というわけではありませんでした。その点、訂正し、きつい語調で書いたことをお詫びします。先々記事に使えるかもしれませんので、長文でいきます。
7冊の事典を眺めてきました。他に言語学の教科書の類を拾い読みで20冊ほど見ましたが、そのうちこの問題につきなんらかの記述があったのは約半数でした。
事典では、二つの異なる定義が提案されます。[]は話の便宜のために私がつけました。
- 1) [標準語定義] 言語とは標準語のことである。標準語は、政治・文化・歴史で決定される。言語自体の性質とは関係しない
- 2) [集合的定義] 地理的に分布する多様な広がりを持つ言語
- 2a) [相互理解性基準] 通じれば同じ言語の方言、通じなければ別言語、
- 2b) [共通項の数基準] 共通項の数で決める
1に対しては、特に批判はありません。言語学は言語外の基準の当否についてどうこう言う資格がありませんから、まあ、当然です。2に対しては、以下の批判が提出されます。
- a) 相互理解性は、言語連続性があるとき解決不能。隣同士を伝っていけば通じても、離れた所同士では通じない場合、同一言語なのか、方言なのか。[言語連続性問題]
- b) 相互理解性があるものを方言にせず別の言語にする例がある。相互理解性がないものを方言として別の言語としない例がある。現地に赴いた調査者によって数が違ってくる。その他、言語差>方言差というルールと実際の分類例が矛盾している例。[分類矛盾問題]
- c) bに言及しないが、本の中で実際に上記の分類矛盾をきたしている[実際の分類矛盾]
上記批判に対する応答は、ありません。
以下、各事典の結論的な部分を示します。年は原著の出版年です。
- マルティネ編『言語学事典』 言及なし
- 『ラルース言語学用語辞典』 (1973年)
- 標準語定義は、「言語外的理由」による分類である
- 集合的定義にはいろいろな問題がある。「言語の定義は複雑」
- 安井稔『新言語学事典』改訂増補版 1975年
- 方言は「厳密な定義を与えることが不可能に近い。」方言と言語の違いは客観的基準で数量化できない。
- N. E. Collinge (ed.), An Encyclopedia of Language (1990)
- 言語、方言の別は、言語的基準ではなく、地政的、民族的、文化的基準にもとづく。
- Kirsten Malmkjaer (ed.), The Linguistics Encyclopedia, second edition(1991)
- 方言と言語の区別は厳密な解釈に耐えられない。「束ねたもの」を手軽に言い表すための便法にすぎない。
- David Crystal, The Cambridge Encyclopedia of Language (1997)
- 多くのケースで、分類は政治的な「争いの中にあったり、うまく適用できなかったりする」言語の数をきちんと数えることはできない。
- International Encyclopedia of Linguistics, second edition (2003)
- 言語の定義はなし
- 1)似ている他言語があり、2) その言語の内部にさらに下位の言語がなく、3) 公式の正書法や文法がない言語が方言。(方言を「言語」と言ってしまっているが、記述が簡単すぎてどこまで本気なのかわからない)
数えると、区別の学問的性格を否定するもの4、難しいとするにとどめるものが1、肯定的なものが1、言及なし1です。
事典の中に言語リストを抱えているのは、ラルースとInternationalです。見たところ、どちらの分類も上記の分類矛盾問題を抱えています。そしてどちらも、「方言」の項目では分類矛盾問題について触れていません。特に唯一肯定的なInternationalは、定義や基準が直面する問題について何も語りません。Internationalの場合、解説は長いのですが、大部分がイングランド方言で占められており、そのせいで難しいところに触れずにすんでいるようです。
「言語学」の入門書や教科書の中では、何の言及もないものが半分くらいありました。何かしら書いてある約10冊のうち、方言と言語の区分に否定的なものは2冊、残りはどれも短く触れるだけでした。分類矛盾を例に引いて難しさに触れたものと、特に何も触れずに言語の下に方言があると書いたものが同数程度です。日本人研究者の場合、国内の方言研究だけに目を向ける人は、区分や基準の問題に注意を払わないように思えました。
- 一般的に、基準問題への関心が薄い。
- 隣接した同系他言語を持たない地域の方言を調べる言語学者は、区分を(多分に無自覚に)肯定する。
- 基準問題を正面から取り上げる言語学者は、否定的な答えを出す。
- 実際の区分は政治的・文化的な基準に従う。言語的基準を通そうとする学者はいない。
- 結果として、争点部分には複数の意見が並立し、それで特に論争にもならない。
- しかし、争点となる言語に属する学者は決して無関心ではないらしい。
以上のように傾向をまとめることができるかと思います。確かに、言語と方言の階層をそのままに肯定する人はいますが、その人たちはイングランドやアメリカや日本の中の方言を調べている人で、争点部分に関心がないようです。争点部分に取りくむ人は、言語的基準を通そうとしません。Kinori 14:01 2004年4月28日 (UTC)
(余談のお願いですが、『言語学大事典』をお読みになったのでしたら、それも補完してください。上の文章に手を入れてかまいません。私が行った図書館では、見あたりませんでした。検索にはかかったのに、誰か持っていってるのか。)
Tomosさんは、私が中立性の観点から意見しているのだとお考えのようです。結局はそれも関わりますが、中心部分は違います。「自説ではなく学問的に認められた既存の知識を書く」という原則の方です。ここでの既存の知識とは、分類が難しいこと(言語連続性)と、言語学者のリストでの方言・言語間の線引きは言語に根ざすものではない(分類矛盾)ということです。
言語学の専門家たちは、言語の性格より世間の慣習を優先して分類しています。もし世間の慣習が確固としていれば、それに挑戦しようとはしません。Tomosさんの言われる言語学者の間での慣習は、そういう地域には確かに存在します。言語学者はみなノルウェー語とデンマーク語を二つに分けます。しかしそれは言語学的に正しいと感じているからではなく、世間の慣習には従うしかないからです。こういう場合には、ウィキペディアも世間と学者の言う通りにするしかありません。
しかし世間が分かれる部分では、学者の意見も割れます。例えばセルビア・クロアチアです。そして彼らは、それぞれ自分の感想や意見を持ちつつ、方言か言語かで論争するのは学問的ではないと見ています。争点の判断を言語学者に頼るわけにはいかないのです。
これが言語分類に関する知識の現状です。これを踏まえて、ウィキペディアがどのような対応をとれるかを考えてみます。
いくつかの解決策があります。
- 第一は、言語の距離にもとづく分類を貫くものです。
- 第二は、公用語に採用した国の呼称を貫くものです。
- 第三は、何らかの基準を用いて分類し、それを適用する地域と、適用しない地域を分けることです。
第一は、ロリさんがそうしたいとノートで言いつつ、実行はしていないものです。セルビア語とクロアチア語を統合し、スカンジナビア諸語を一つか二つに統合し、スペイン語、カタラン語、ポルトガル語を統合し、その他Safkanさんが挙げた諸語を一つの言語にまとめることになります。しかしそのような分類法は誰も採用していません。
第二では、公用語をストレートに並べます。公用語は、政治的理由で定められるもので、言語学的な分類ではありません。ここには学問的問題は起こりえません。
第三は、現在のものです。現在のリストでは、旧ユーゴなど威信が低い国々の政策が修正され、北欧や中国の政策は修正されません。そうした上で、言語にもとづいて修正したと書いています。
セルビア語とクロアチア語を分ける人と、一つにまとめる人がいます。そういう場合に現在のウィキペディアは、セルビア語とクロアチア語をまとめながら、デンマーク語とノルウェー語を分け、またスペイン語とカタラン語を分けます。そうなる理由を言語学的に説明できますか。一ウィキペディアンの考えでなく、言語学からの説明があるなら、ぜひ聞かせてください。私が読んだ事典と本では、そこには政治的・文化的理由があるのだと説明していました。
言語の分類のようなリストでは、便宜的にいってしまうのも仕方がないです。そこには近縁関係という重要な情報があります。他にうまい手もありませんし。
しかし公用語リストにおいて、ある国の言語政策を否定するのはどうでしょうか。否定側の方が優れているとは言い切れないのに。結果として、威信の低い国の政策にだけ難癖をつけるのは、恥ずかしいことです。さらに、言語学者は公用語決定者よりも優れた基準を持っているのだという誤解を与えかねません。そうした欠点は、シンプルな公用語リストにすることで取り除けます。Kinori 14:10 2004年4月29日 (UTC)
- 私は言語学者ではありませんので、世界の言語をあまねく調査したわけではありません。私の調べた範囲で実行しています。Kinoriさんはそうとう言語学にお詳しい様ですので、Kinoriさんの調査した公用語の中身の分析を言語の記事として全て書かれてはどうでしょうか。
- 私の前回の意見の続きですが、表記や文法が同じ確立された正書法があって公用語とされている場合を同一言語とすべきだと思います。世界には同じ言語でも話し言葉となると意思疎通が困難になるほどの差がある方言が多く見られます。この話し言葉を全て分類しようとすると、先に議論されている様に言語学者でも不可能です。ただ公用語となると既に確立された正書法があるわけですし、マスコミもそれに対応した標準的な話し言葉を使用します。少なくとも文書の上では意思疎通が計れるわけです。問題はセルビア語とクロアチア語の様に話し言葉はほぼ同じであるのに表記法が違うといった特殊なケースです。このようなケースが他の国の公用語にも存在するのかどうかわかりませんが、一旦正書法で分類し、注記を付けるのが最良の方法なのではないでしょうか。ロリ 09:03 2004年4月30日 (UTC)
私も言語学について詳しくありません。こちらのノートに最初に書き込んだ時点では、この問題について二、三冊を読んだことがあっただけです。
ただ、争点につきあたったときに、ロリさんの考えとSafkanさんの考えとどちらが正しいか、この場で実質議論して真実をきわめるというのは、ちょっと違うと感じました。やるべきことは、その分野の知識水準がどんなものか、調べてくることでしょう。
上で私は、言語の認定は言語学的にしているわけではないのだと、調べて紹介しました。一般の人からすれば意外なことだと思います。実際、専門家の中には、世間の見方についてブツブツ文句を言っている人もいます。(例えば最近出た黒田龍之助『はじめての言語学』。恐ろしく読みやすい、しかし評判の良い本です) なのでロリさんがその様な意見を抱いていることは、おかしなことではありません。
そしてロリさんが彼らの言い分に納得する必要もありません。しかし、言語分類法についてこの場でとりあげる価値があるのは、外の専門家の意見です。ですので、「私の意見」で説得しようとしないでください。ここでウィキペディアの中の人が言語分類論争を起こして、もし決着がついたとしても、採用すべきなのは依然として外の人の意見なのですよ。自分の意見と編集方針とを分裂させるストレスはお察ししますが、言語分類方法については、外の人の意見を優先させてください。
言語の切り分けは言語によってはできないということを、外の人に従って認めたうえで、中の人は表の作り方を考えなければなりません。それは編集スタイルの話ですから、各人の意見が出てきていいことです。(その時には、ストレートな公用語リストしかないと私は言いたいわけですが)
ウィキペディアは成長する事典ですから、良く知らない状態で記事を起こし、少しずつ調べて良いものにしていくという方向に、なんら問題ないと思います。ロリさんの仕事も、がんばっておられるなあと好意的に眺めております。でも、変える時が訪れたら変えていきましょうよ。Kinori 17:48 2004年4月30日 (UTC)
他の方に良い方向で変更されるのは何も異議はございませんよ。Wikiはそういうところですし。またWikiに外も内もありません。言語学者も参加できるわけですから。公用語に関する分類と、Kinoriさんの調べられている言語に関する問題は少し論点がずれていると思います。kinoriさんの調べられている内容は会話言語一般のことであって言語の分類一覧の内容だと思います。ロリ 08:46 2004年5月2日 (UTC)
- おっしゃる通り、「言語の分類一覧」と「公用語の一覧」は違います。ですので、私は近縁関係の判定方法については何も書かず、もっぱら「同一言語かどうかの判定」についての説を紹介しました。
- ロリさんの語法が「言語の分類」に「同一言語かの判定」を含めないことは了解しました。この場ではそれに従いましょう。それでは、「同一言語かの判定」にいちいち置き換えて、私が調べてきた内容を読み直してください。それで論点はずれていないと思いますよ。Kinori 08:13 2004年5月3日 (UTC)
ロリさん、Kinoriさん、Safkanさんの書き込みを読んで、あれこれ考えたことがあり、ちょっと書ききれないですが、手短に。
- 公用語の数を単一の値だけで表現するよりは、その幅なり、異なる集計方法による値なりを紹介するのがより中立かな、と思いました。(=Safkanさんに同意)
- Kinoriさんの意見では、ロリさんが威信のある国ない国で扱いを変えているということのようですが、では平等に扱って、スカンジナビア系の諸語を統一するのは中立か、というと、それは各国政府に対しては一応中立な立場だということになるように思いますが、別の面で問題が残る気がします。分類の基準がオリジナルである分だけ、マイナーな立場からの説明を前面に押し出し過ぎて、言語学者の間の主要な見解なり、各国の意見なりをややマイナーであるかのように思わせる可能性があるので。(つまるところKinoriさんの意見とおおかた同じですが、オリジナルな研究発表=非中立、ということがこの文脈では言えるように思います。)
- 各国の事情があって言語が同じであるとか異なるとかいう主張をしているのだからそれを尊重しよう、というのが「各国の主張そのまま採用方式」を推す理由のひとつだと思います。ただ、原理的には、ある国の主張が、その国の国民の主張を適切に反映しているとは限らないわけで、「各国の主張を採用すること=各言語の話者の主張を採用すること」というSafkanさんの挙げた図式が成り立つのかどうか、ちょっとわからなくなりました。また、仮にこれが成り立たないケースがあった場合に、どのような対処をすべきなのか(政府公式見解を採用せずに、話者の主流派の意見を反映させる形で分類をするべきなのか、それとも、そうした細かな事情は考慮せずに、あくまで政府公式見解を採用するのか)ということを考えた場合、政府の公式見解を採用することは、結局、民族のアイデンティティなどその他のややこしい問題に目をつぶることではあっても、「それぞれの言い分を尊重すること」ではない、ということになりそうです。だからこの方式はだめ、ということではないのですが、政府公式見解を採用するとしたら、「各話者人口の見解を尊重する」という理由だけではちょっと弱いかな、と思いました。むしろ「細かな事情を考えなくてもよいこと」「いずれにせよ基準が恣意的でいつまでも議論が続けられそうなネタである事」などを理由として採用すべきかと。(現にSafkanさんはそういう理由も意識していると思いますが。)
- ただ、これは原理的な可能性の話なので、具体例のレベルでは実際にSafkanさんが挙げた「政府見解=話者の意見」という図式が問題なく成り立っているし、今後もそういう状態が続くと見込めるのかも知れません。
とりあえず以上です。最後の点は、例などを挙げられるとよさそうなんですが、ちょっと急ぎなのでとりあえずはこれで。 Tomos 02:16 2004年5月6日 (UTC)
- 遅ればせながら『言語学大辞典』をみてきました。「方言」の項目を含む第6巻:術語編は1996年の刊行で、わりと新しいようです。
- 言語学大辞典の方言の項目をみると、Kinoriさんの類型された中では、基本的には[標準語定義]に類するようです。おおざっぱにまとめると、
- 方言とは、ひとつの標準語や共通語、文字共通語がかぶさっている同系統にある言語どうしのことである。しかしこれは定義のひとつであって、同系統にあればその系統に属するすべての言語が方言であるともいえてしまう。
- ということです。ふたつの定義法の違いについて直接の言及はなかったようでした。ただ、ここでは、Kinoriさんが探してこられたような、ふたつの定義法とは別次元の問題として、「ある地域、ある集団の間で共通して話されることばのひとつひとつが言語である」ということが前提に置かれているようです(「言語」の項はざっと見た限り、それらしい定義は見つかりませんでしたが)。
- 上の定義によると、つまり、「一般的に方言と言われることばもひとつひとつがひとつの言語であって、方言というものは、ひとつの言語の変種ではなくて、ひとつの標準語をもつ同系統の複数の言語である」と言えると思います。これを、今回の議論のケースの場合で言い換えると、そもそも「複数の言語を方言と定義することと、同一言語かどうか判定することは、全く別問題である」ということです。これでは、「あれは方言」「これは別言語」という議論がそもそも成り立たないように感じました。Kinoriさんの仰る通り、方言か言語かで議論することは学問的ではないし、ということは、学問的基準によって「複数の別名の公用語を同一言語か判定」することは不可能ということになります。僕は今回調べたことを何冊かの概説書で読んでだいたい理解していたつもりで、その上でこれまで「判定の基準は政治的なのだから、政府の主張に置くべき」と主張してきたつもりです。
- ところで、上でのTomosさんの所感についてですが、「ある国の主張が、その国の国民の主張を適切に反映しているとは限らない」例として、モルドバ語がそれにあたるかもしれません[2]。この点は、これまで僕が行ってきた議論の大きな弱点だと思います。しいて言い訳すれば、どの政権が「国」であるかを認めるのも日本の政府なり誰かがやっていることで、どの国を公用語をもつ国の例としてあげるかにおいて、国民の主張を適切に反映しているとは限らない、などと主張できそうです。しかし、そんなふうに議論のすり替え的反論を繰り返していると、双方納得できないままここでの話が終わってしまいそうです。そのように考えると、ここで、僕の主張はいったん取り下げたうえで、Kinoriさんの提案を支持したいと思います。学問的に判断できないなら、できるだけ国家機関が公用語と定めている言語を系統等は置いておいた上で、できる限り名前順というストレートに並べたほうが良く、また数をカウントすることは無意味である、という結果の面では変わりません。Safkan 14:23 2004年5月7日 (UTC)
- 調査ありがとうございます。してみると、上で方言の判定方法を載せていると紹介したInternationl Encyclopediaも、『言語学大事典』と同じ立場なのかもしれません。言語数や同一言語判定の無意味さについては、いずれ記事内容に反映させたいものです。(ただ、今の各記事の完成度はかなり高く、そこにうまくおさめるのが自分には少々難しく感じられます。)表についての私の意見の結論は変わりません。ストレートな公用語リストです。Kinori^
パラオ共和国アンガウル州において日本語は公用語であるのか?
「パラオのアンガウル州での公用語は、アンガウル語・日本語・英語である」などとする記述はネット上でいろいろ見付けることができますが、その殆どはCIA The World Factbook を写したもの、あるいはさらにそれらからの孫引きだと思われます。ところが、CIAの資料には、そのように断定する根拠が何であるのかが全く示されておりません。またこれは、便覧のような性質の資料であって、学術的に十分信用できるようなものでもありません。例えば「アンガウル語」なる言語が本当に存在するのか、存在するとしてそれはいったいどのようなものであるのかも不明です。在米パラオ大使館・在日パラオ政府観光局などは、日本語が公用語であるという事実はないとしています。従って、日本語が本当にアンガウルで公用語(この「言語」という記事のリストでは「共通語」という表現が絡んでくるので事態はさらに複雑になりますが)の一つであるという確定的なソースが出てくるまでは、当該の記述は載せないで頂きたいと思います。載せておくと、ブログなどでこのWikipediaから孫引きして「パラオでは日本語が公用語」ということが恰も100%真実であるかのように書くものが多く出てきてしまい、混乱を助長するだけです。CIAには再調査を依頼中です。また、パラオの言語に関する専門家にも詳細を問合せ中です。なお、この件に関する議論は ノート:アンガウル州 で一本化して行っておりますので、そちらもご参照下さい。 CutieNakky 2007年9月23日 (日) 22:32 (UTC)
- 「当該の記述は載せない」よりも、「記述を一旦除去した上でなお『CIA The World Factbook』によればパラオのアンガウル州での公用語は、アンガウル語・日本語・英語であるとされる(が、その信憑性に疑問が投げかけられている)等と補足する」の方が、一時的な措置としては妥当だと考えますが如何でしょうか。(最終的な措置をどうするかは向こうの議論や新しい証拠などに任せるとして)Bit 2007年9月24日 (月) 09:49 (UTC)
- 確かにそのような記述の方がより真実に近いので、特に異議はありません。ただし、やはり不用意な誤解を招きやすいと思うので、本文中に表示するのではなく ref で脚注として示しておいた方が良いと思います。 CutieNakky 2007年9月24日 (月) 10:18 (UTC)
- そのようにしました。Bit 2007年9月24日 (月) 12:11 (UTC)
ノート:アンガウル州にて有力なソースが提示され、議論が収束致しました。しかしながらこの記事内のリストは拝見する限り「国としての公用語」を掲載しているものであり、一州に過ぎないアンガウル州をそこに加えるのはそもそも適当ではないと考えます。以上の理由により、この記事におけるアンガウル州についての記述の削除を提案致します。--唄方 2007年11月18日 (日) 04:25 (UTC)
- リストに直接記載するのではなく例えば「国ではなく州だが、パラオ共和国アンガウル州で公用語に指定されている」のような文章を今までのように脚注として載せるのであれば全く問題ないと考えます。Bit 2007年11月18日 (日) 05:21 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。しかし脚注であれば問題ないとした場合、例えばルイジアナ州のフランス語や香港の英語なども脚注であれば問題ないことになってしまいます。これら他の州公用語と比較しても、実態のないアンガウル州の日本語が例外的に記述を許して良いほど重要であるとは思えません。この記事は公用語の列挙が主目的ではありませんし他に公用語の一覧といった詳細な記事もありますので、例外を多く作る危険を冒してまでこの記事内に記載する必要はないと考えます。--唄方 2007年11月20日 (火) 13:00 (UTC)
公用語の一覧というものがあるのを知りませんでした。それなら「各国の国語・共通語・公用語」の節自体を公用語の一覧に統合して、言語からは「公用語の一覧を参照」とだけ書いておけば良いと思います。Bit 2007年11月20日 (火) 16:35 (UTC)
- 異論ありません。とりあえず本記事と公用語の一覧を比較し、漏れていた分を公用語の一覧に追加しました。--唄方 2007年11月23日 (金) 10:34 (UTC)
漏れの確認と修正ありがとうございます。では暫く待って他の方から反対意見が出なければ「各国の国語・共通語・公用語」の節を削除しますね。Bit 2007年11月23日 (金) 11:44 (UTC)→削除しました。Bit 2007年12月14日 (金) 23:44 (UTC)
関連項目について
「関連項目」の欄が非常に乱雑に加筆されているようですが、どのように並べられているのでしょうか。掲載基準について問わないにしても(個人的にはすでに記事が作成されているもののみを載せるべきかと思いますが…)、これだけたくさんの項目が並べられている以上、読者の見やすさを考慮して何らかの「並べ方」が示される―あるいはもうちょっと整理して掲載する必要があると思います。--拙者(会話) 2012年5月18日 (金) 06:59 (UTC)