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諸法無我

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諸法無我(しょほうむが、sarva-dharma-anaatman सर्व धर्म अनात्मन्)は、仏教の用語の一つであり、三法印四法印の一つであり、釈迦の悟った項目の一つである。すべての存在には、主体とも呼べる「我」(が)がないことをいう。

諸行無常といわれるように、一切のものは時々刻々変化している。ところが我々は、変化を繰り返し続ける中に、変化しない何者かをとらえようとしたり、何者かが変化してゆくのだと考えようとする。その変化の主体を想定してそれを我(が)という。 我とは「常一主宰」(常とは常住、一とは単独、主宰とは支配すること)のものといわれ、つまり常住である単独者として何かを支配するものを指す。

インド古来の考え方は、変化するものに主体としての変化しないものを想定した「有我論」(うがろん)である。ところが、仏教は、存在とは現象として顕われるのであり、変化そのものであり、変化する何者かという主体をとらえることはまちがいであると指摘する。そのような妄想された「我」に執着する執着を破るために諸法無我が説かれた。これは一般に有我論が説かれている最中に釈迦だけが主張した仏教の特色である。諸法無我は、インド在来の実体的な「我」の存在をも否定し、「我」を含むあらゆる存在は「実体」ではありえないことを主張する。

我々人間は、しらずしらずの間に私自身の現存在を通じて、そこに幼い時から成長して現在にいたるまで肉体や精神の成長変化を認めながら、そこに「私」と呼ぶ実体的「我」を想定し、成長変化してきた私そのものをつかまえて、私は私であると考える。しかし、諸法無我はそれこそ我執であるとして退け、変化をその変化のままに、変化そのものこそ私なのだと説くのである。この意味で、諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、つねに一切の力の中に「関係そのもの」として生かされてあるという、縁起の事実を生きぬくことを教えるものである。

一切のものには我としてとらえられるものはないという考え方を徹底して自己について深め、目に見えるもの見えないものを含めて一切の縁起によって生かされてある現実を生きることを教えている。このような共々に生かされて生きているという自覚の中にこそ、他者に対する慈悲の働きがありうるとする。

神の存在について

有為法だけでなく無為法を含めてすべての存在には主体とも呼べる我がないというのは、他の宗教に言われるような「神」などの絶対者もまた無我であることを意味する。これは絶対者の否定ではなく、神などもまた我々との関係の上にのみ存在することを意味している。 仏典の中にも神が出てくる場面が多いが、絶対者としての神ではなく、縁起によって現れたものと見るべきであろう。その意味で、仏教は他の宗教と根本的な違いを持っている。