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F-2 (航空機)

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ファイル:F-2a504.JPEG
F-2A

F-2F-1支援戦闘機の後継機として開発された日本航空自衛隊支援戦闘機。主契約企業は三菱重工業ロッキード・マーチンとの共同開発である。日本及び本機の特殊な事情により、およそ120億円と高価な戦闘攻撃機となった。米国生産分として1機当たり47億円が支払われていると言われる。

正式な愛称はないが空自パイロットなどの間ではバイパーゼロとよばれることもある(バイパーとはF-2のベースとなったF-16の非公式の愛称で、ゼロは量産機が納入された西暦2000年、すなわち採用年の下2桁を形式名称とする日本式命名法と、最も有名な日本製戦闘機である零戦を引っ掛けたといわれる)。またアメリカ軍関係者から「フェイクファルコン」(「ニセF-16」の意味)と冗談交じりに呼ばることもあるという。

開発経緯

日米共同開発によって、後に「レイプされてできた子」と関係者が口にしたとまで言われるF-2であるが、独自開発を目指していたものからは反発を受け、感情的な批判も数多い。開発の経緯と詳細を以下に記す。

次期支援戦闘機開発計画

1982年昭和57)7月、国防会議において「昭和56年度中期業務見積(56中業)」が了承され、この中に次期支援戦闘機(FSX)24機の整備が含まれていた。F-1量産初号機が初飛行した1977年(昭和52)6月から5年、実戦配備からわずか3年後のことであるが、F-1の開発母体であるT-2の開発開始が1967年(昭和42)であるために早期の陳腐化が懸念されていた。

日本における「支援戦闘機」隊の誕生そのものがF-104Jの整備で余剰となったF-86Fをもって編制されたものであり、最盛期の1965年(昭和40)にはF-86F、F-86D、F-104J/DJあわせて19個飛行隊が存在し、とりわけ供与機180機にライセンス生産300機の計480機を取得し、多すぎるからと供与機から45機を返還したほどのF-86F飛行隊10個をどう扱うかに端を発している。支援戦闘機部隊としての「指定」は北部航空方面隊、中部航空方面隊、西部航空方面隊に各1隊づつ行われだが、これらのF-86F飛行隊は支援戦闘飛行隊として再編制されたわけではなく、要撃戦闘飛行隊に「支援戦闘飛行隊としての任務を付与」する体裁をとっていた。つまり本業は要撃戦闘であり、支援戦闘機部隊としての指定を受けていても対領空侵犯措置任務は継続して行っていた。

これが1976年(昭和51)10月に閣議了承された平時における日本の防衛力を定めた「防衛計画の大綱」において決定された「要撃戦闘飛行隊10個、支援戦闘機隊3個、所要機数は要撃戦闘機約250機、支援戦闘機約100機」の根拠となる。航空自衛隊にしてもオペレーションリサーチの明白な結果によって支援戦闘飛行隊3個という数字を出したわけではないので、当時から「ただでさえ足りない戦闘機を任務ごとに分けるな」とか「支援戦闘機であっても要撃戦闘飛行隊を補佐し、対戦闘機戦闘や要撃任務を遂行せよ」という声は根強かった。F-1やF-2において戦闘機としての能力が要求される所以も、この支援戦闘機隊の成立の経緯と深く関わっていたのである。

F-1開発完了直後の1978年(昭和53)から次期国産戦闘機を睨んだ運動能力向上機(CCV)研究、コンピュータ支援による航空機設計システム、将来火器管制装置、戦闘機搭載用コンピュータ、5トン級戦闘機用エンジンなどが予算を与えられ、それぞれ別個に開発が進められていた。しかし56中業に盛り込まれたからといってすぐに開発が具体化するわけでもなく、この時点では分野ごとの研究であり、統合された兵器システムとしての戦闘機開発には発展していない。そもそも56中業では1987年(昭和62)までに次期支援戦闘機が24機必要になるとしており、たった5年での国内新規開発など間に合うはずが無い状況だった。また、この56中業にF-1後継機が盛り込まれたことからF-1の調達数は当初の予定100機からFSX分24機を引いた76機に削減されている。

輸入派と国産派

これに動きが出てくるのは1984年(昭和59)12月、F-1の耐用命数が管理方式の見直しによって3500時間から4050時間に延長されたという報告がなされてからである。これによってF-1の就役期間が当初の予定より延びて昭和72年(1997年平成9年)度となり、選定から配備まで10年の時間がとれることが見込まれた。その直後の1985年(昭和60)1月に航空幕僚長から技術研究本部長に対して下記のような運用要求を提示し「国内開発の可否」が問い合わされた。

  • 空対艦ミサイル4発装備した状態で戦闘行動半径450海里を有すること。
  • 短距離空対空ミサイルと中距離空対空ミサイルをそれぞれ2~4発装備できること。
  • 全天候運用能力を有すること。
  • 高度な電子戦能力を有すること。

同年9月の回答は「エンジンを除いて国内開発は可能」というものであった。しかし「対艦ミサイル4発搭載、戦闘行動半径450海里」の「現用機にない」要求とあわせて、このタイミングでの耐用命数のみを理由とした就役期間延長と国内開発可能という回答は、国産戦闘機開発への露骨な誘導と取られ、国会においても追求を受けることとなる。

56中業で定められた「87年までに24機の調達」であれば「外国機の導入」と「現用機の転用」の二択だったものが、その具体的作業が始まる前に10年の余裕が生まれたことから「国内開発」という選択肢が生まれた。1985年(昭和60)10月、具体的選定作業が始まり、その一環としてジェネラル・ダイナミックス(F-16Cマクドネル・ダグラスF/A-18)パナビア(トーネードIDS)に質問書が外務省経由で送付された。

また、この年は三菱重工業川崎重工業が技術研究本部に対し、戦闘機開発に関する研究報告を提出している。ともに双垂直尾翼でエンジンは推力8トン級の双発で「対艦ミサイル4発を装備して450海里の戦闘行動半径」はクリアするとされていた。スペックとしては現在のF/A-18E/Fスーパーホーネットに近いが、三菱案はカナードを装備し、川崎案はF/A-18に似たシルエットを持っていた。三菱案(社内呼称JF210)は「航空ジャーナル」1985年6月号に想像図が掲載された。1983年(昭和58)に初飛行したT-2CCV研究機や、1985年(昭和60)に初飛行した低騒音STOL実験機「飛鳥」が国内航空技術の発達をアピールしていたのもこの時期である。

防衛庁内の国内開発推進派も三菱や川崎と同調し、CCVや新コンピューターシステムの開発結果を根拠に(実際には根拠となるほどの成果は無かった。CCVやコンピューターの開発も実用には程遠い段階で開発終了となっているのである。)、国内開発をすればどれほど素晴らしい戦闘機が配備できるかを様々なルートから訴えた。

この年の12月に貿易収支が発表された。対米黒字は前年を上回って約395億ドルに達し、84年初めに対日赤字200億ドルを突破していたアメリカ社会に衝撃を与えた。すでに経済摩擦は激化しており、国民の対日感情も悪化、いわゆる「ジャパンバッシング」があちこちで噴出し、アメリカ政府も半導体繊維製品の貿易調整、柑橘類や牛肉の輸入自由化を日本に迫った。航空業界もFSXに自社の製品を購入させるため、商務省を通じて攻勢をかけていた。

国際共同開発の模索

年の明けた1986年(昭和61)に外国メーカーに出された質問書への回答が寄せられ始めたが、内容の不備や10年後に採用する戦闘機を現代のスペックで測るという前提が強い反発を受けたため、2月と4月には再質問書を改めて送付されている。7月には外国メーカーより「所要の改造を加えることで要求性能は満たすことが出来る」との回答を受けた。10月にF-16およびF/A-18の「能力向上型の共同開発」の提案が、トーネードの「能力向上」の提案を受領している。

また、日本側も国産案で国論を統一していたわけではなかった。日本の国産兵器の能力に全幅の信頼を置く人間ばかりではないからである。とくに価格面では国産がどうしても海外より割高になってしまうため、F-1(の原型となるT-2)の開発の際にも防衛庁内部に強力に外国機導入を主張する一派が存在し、大蔵省(現財務省)とのパイプを持つ彼らは、アメリカのT-38とF-5の組み合わせこそがコストパフォーマンスに優れると強力に主張していた。当時導入を決定したF-4EJファントムが複座であることから、運良く戦闘機パイロットの養成スケジュールに余裕が出来たためにT-X国内開発の時間的余裕が出来たようなもので、そうでなければ国内開発は時間切れで断念していた可能性もあった。

FSXの選定においても外国機の導入の検討も当然のことと認識されており、国外への調査団は派遣されるたびに詳細な資料の収集を重ねていた。つまるところ予算が付かない限り試作も出来ず、完成予想図しか出せない国産案が具体化するには、アメリカが「エンジンだけ」の販売認可を出すことが大前提であった。

だが、100機を超える市場に対して、エンジンの販売だけで納得するメーカーもなければ、当時の貿易摩擦の最中で政治的に対日譲歩を行う余裕がアメリカ政府あるはずもなく、欧州製エンジンの導入についても、欧州機が毎回選定から外れる理由、すなわち根本的な性能の不足(F-1を例にみても)を甘受する気が自衛隊にない以上、当て馬以上の存在となり得なかった。それらを跳ね除けてエンジンのみの調達を図る政治力を発揮できなかったことが、国産案の不幸であった。

1986年(昭和61)12月には「国内開発」「現有機の転用」「外国機の導入」の三択のうち「国内開発」を「開発」と改め、「アメリカとの共同開発」をこれに含めることとなった。年が明けた1987年(昭和62)、栗原防衛庁長官はFSX選定にあたって下記の三原則を示した。注意すべきは第2項目で、軍事的な相互運用性(インターオペラビリティ)を確保できることとの注釈がついていた。

  • 防衛上の技術・専門的見地から、日本の防衛にとって最善のものを選定する
  • 日米防衛協力体制の重要性を踏まえる
  • 内外の防衛産業の影響を排除する

この年の3月、日米貿易摩擦は遂に頂点に達し、アメリカのロナルド・レーガン政権(当時)は日本に対して経済制裁措置をとると発表した。前年には繊維、半導体に関する交渉で決着がついていたはずだが、牛肉とオレンジの自由化はまだ決着がついていなかった。中曽根康弘総理大臣(当時)は就任以来、レーガンと親密な関係を築いてきただけに、これ以上の日米関係悪化はどうしても避けたかった。ところが5月東芝ノルウェー経由でソビエト連邦に機械を輸出していたことが発覚、アメリカ政府は対共産圏輸出(ココム)違反であるとして、日本政府に詰め寄った。東芝社員2名の逮捕者を出したこの事件は、国内開発派にとっては絶望的なタイミングであり、6月に日本は牛肉とオレンジの全面自由化を決定した。

6月28日、東京都内のホテルで行われた栗原防衛庁長官とワインバーガー国防長官の会談では日本側より「日米共同開発で新しくFSXを開発したい」、アメリカ側より「米国の戦闘機を日米共同で開発してはどうか」との意見が交わされ、日本単独の開発を示す「国内開発」は事実上の終焉を迎えた。

7月に欧州のトーネードが候補から外され、代わりにF-15が加えられた。以後、日米共同開発案におけるF-15、F-16、F/A-18の得失比較が主題となり、9月には三菱重工業を中心とする関連企業5社からなる「FSX民間企業研究会訪米調査団」がF/A-18をベースとする共同開発案を最有力候補とした報告書を提出している。

1987年(昭和62)10月23日。首相官邸小食堂では「次期支援戦闘機に関する措置」を議題にした安全保障会議が開かれた。この席上で西広防衛局長は検討の経緯について説明した後「支援戦闘機F-1の後継機FSXに関する措置については、日米の優れた技術を結集し、F-16を改造開発したい」と結んだ。出席した閣僚からの質問もほとんど無いまま、中曽根首相の「どうもごくろうさんでした」という言葉でこの決定は承認された。

日米共同開発

アメリカ側の提案によって、既存の米軍機を基準に日本側で独自の改良を施すこととなった。ベースになる戦闘機の候補としてF-15EF-16CF/A-18が上がり、当初は双発機の採用が検討されていたが、最終的には単発のF-16改造型を開発ベースラインとすることが決定され、1988年(昭和63)11月、日米政府はFSXをF-16を元に開発することで、政府間開発覚書を締結した。

防衛庁が安全のためにこだわったはずの双発エンジンの2機種が選定されなかった理由として、F-15Eは高価すぎ且つ国産技術を採り入れる余地があまり無いこと、F/A-18は艦上機であるために必要以上の機体構造強度を有し、重量の面で不利と考えられたと言われている。その一方、F-16は単発機であるものの、国産技術を採り入れる余地も比較的多く、価格の面でも有利と判断された。ここで開発分担率を日本60パーセント、アメリカ40パーセントとして、アメリカ生産分は現地で組み立て、日本に輸入することに決定した。

F-16を元にFS-Xは開発されることになったが、アメリカでは「高性能なF-16の技術を日本に渡すことは無い」という意見まで飛び出した。もちろん、日本に国内開発させろというわけではなく、F-16をそのまま買わせよ、ということである。しかし、高度な電子部品などはアメリカが技術移転を許さず、日本が全て自力開発することになっており、この意見には日本関係者が皆あきれ返ったという(電子部品は完成品を輸入するようにアメリカに勧められたが、それでは技術育成に全くつながらないとして、防衛庁の国内開発派がこだわった)。

FSXは一見、F-16 Block40/50と全く違いが無いように見えるが、主翼面積の拡大を始め、更なる低抵抗化など、機体設計は全面的な見直しを受けている。先端技術が多く盛り込まれており、日本の戦闘機として初のアクティブ・フェイズド・アレイ・レーダーの装備や、外板だけでなく内部の構造部材までも炭素系複合材(CFRP)で一体成形した主翼、日本独自のFBW(フライバイワイヤ飛行制御)技術による高機動性能などがある。だが、1988年の政府間覚書によって、これらの独自技術はアメリカへ全て公開するよう義務付けられていた。アメリカはすでに一昔前の機体を譲り渡すことで、日本が長年温めてきた技術を、「ただ」同然で移転することができたうえ、米国生産分は日本が代金を支払うのだから、日米のどちらが得をしたかは言うまでも無い(かつての不平等条約となんら変わらない協定だったのである)。

FSXは1995年10月7日に試作一号機の初飛行に成功、XF-2と名づけられた。この試作機は4機作られ(1・3号機は単座、2・4号機は複座)、1996年1月9日には単座型がF-2A、複座型がF-2Bの名称となることが決定、2000年9月25日に量産初号機が納入された。予定よりも数年遅れた配備であり、防衛計画に多大な損失を与えたことは言うまでも無い。

初期不良と実戦配備の遅延

F-2は、航空機開発では不可避である初期不具合についても、レーダーの不具合を起因とするアラート任務付与を延期するよう航空総隊が意見具申したとの2002年3月2日付の東京新聞の報道を始め、機体負荷とFBWソフトウェア改修の問題を毎日新聞が報道するなどマスコミの注目を集めた。これらの報道には納税者として当然の疑問や主張もあれば、F-2がAAM-4空対空ミサイルを運用できない事を問題として指摘するなど難癖といえるものも含まれる(95年に初飛行、98年に火器管制装置の飛行試験を行う状況で、制式化もされていないミサイルの運用能力を持つなど不可能である)。

レーダーについては、レーダーそのものではなく(であればC-1改造機で試験しているうちに判明している)レーダーと機体のマッチング、儀装に問題があったと言われている。こればかりは実機を使わないと判明しないし開発の場数の問題である。件のアラート任務であるが、2004年3月より第3飛行隊(三沢基地)に付与された。

又、AAM-4運用には専用の指令装置の搭載が必要となるため、AAM-4搭載改修計画ではレーダー、機体、双方の改修が行なわれる予定。また試作段階においては主翼構造部位に微小な「ひび」が入ったり、特定の非対称運動を行った場合に垂直尾翼に予測値を超える荷重がかかる問題もあったが、こちらは設計変更による強度増加や飛行制御プログラムを調整し、性能を低下させることなく解決済みである。

三沢基地の第3飛行隊を改編したことを皮切りに、FS(支援戦闘機)飛行隊のF-1F-4EJ改を置き換えている。

調達予定の変更

防衛庁は予算削減を受けた平成16年(2004年)度の新防衛大綱によって、戦闘機戦車護衛艦を現在より大幅に削減する方針を打ち出した。まずこの定数の削減が先にあって、邀撃・支援の二本立てであった飛行隊区分を将来的にマルチロール化する必要があり、それを前倒しするためのF-2の調達終了/F-4後継機導入という流れとなっていることを理解する必要がある。

F-2調達中止の理由として価格と性能の問題が常に取りざたされる。3270億円の開発費と機体購入費を合わせて約1兆5000億円が費やされ、開発費込みの価格は1機120億円以上となるのだが、これ自体は防衛庁/政府が政策評価を行いながら計画の継続を決めているので、いわば「覚悟の出費」である。性能については95年から00年にかけて行われた技術実用化試験において要求性能を満たしていることが確認されている。つまり価格でも、性能でもなく、日本の戦略環境の変化、新大綱による保有定数の変更、そして国家財政の悪化による防衛費の一律削減が調達数の減少の理由である。

F-2の当初の調達予定数は下記の通りであった。

  • 支援戦闘機(FS)三個飛行隊 60機
一個飛行隊の定数は20機。各飛行隊は単座のA型18機と複座のB型2機を定数とする。
  • 飛行教育隊
T-2超音速高等練習機の後継として21機
  • 飛行教導隊
アグレッサー飛行隊として過去にT-2、現在はF-15を運用。これに8機。
  • 術科教育用
浜松の第一術科学校では整備員の養成が行われており、これの教材として2機。
  • 在場/減耗予備機
飛行隊ごとの整備や、大規模整備でメーカーに送り返されている間に部隊で使用するために、定数以外の予備機を設けてローテーションを行う。これに39機。
T-4中等練習機を使用するブルーインパルスに11機。

以上計141機の導入が計画されていた。

だが、まずブルーインパルス配備分11機が緊縮財政の折、時期尚早として削減されて130機となった。一般に流布する「130機の調達予定」とはブルーインパルス分の削減以降の数値を指す。そして2002年8月の調達減少を受けて飛行教導隊の8機が全機削減、在場減耗予備が15機に削減(24機減)となり、計32機を差し引いた98機の調達となったわけである。

削減対象が現在F-15を使用し、今後も使用が可能な飛行教導隊であり、減耗や整備ローテーションのための(飛行隊定数60機に対して39機という過大とも言える)在場減耗予備を15機に圧縮する手法で調達数を削減しており、FS三個飛行隊体制は維持される。そもそも欠陥機であれば学生教育に使用することはありえず、高価であっても航空自衛隊に必要な装備であるとの認識が削減対象からも見てとれる。

F-2に関しては、国内開発派の攻勢による情報リークや、開発時期が丁度後にバブルと呼ばれる好景気に重なっていたこともあり、「国産」への過剰な期待があった。また、、日米政府間の貿易摩擦があり、日本がアメリカに譲歩し続ける中で覚書が締結したことで、アメリカに対する反発から、純技術的軍事的にFSXが国内開発が可能であったかよりも、感情論が優先される事も多い。しかし、実際には技術的にも時間的にも独自開発はほぼ不可能であり、軍事的にも国際共同開発は必要不可欠だったのである。

しかし、その後の納期の遅れや開発費の高騰、初期の不具合、調達の軒並み削減により、「もし国産だったらこんなことは無かったのでは」といった根拠不明の意見が噴出したのである。それにより、一部で「レイプされて生まれた子供のようだ」と語られるようになったと考えられる。

スペック

  • 全長:15.52m
  • 全幅:11.1m
  • 全高:4.96m
  • 空虚重量:9527kg
  • 最大離陸重量:22100kg
  • 最高速度:M2.0
  • 航続距離:約4000km(フェリー時)
  • エンジン石川島播磨重工/GE社製 F110-IHI-129 ×1
  • 推力:131kN(=13430kgw)

外部リンク