耶律喜隠
耶律喜隠(やりつ きいん、生年不詳 - 乾亨4年7月3日[1](982年7月25日))は、遼(契丹)の皇族。宋王。字は完徳。
経歴
[編集]耶律李胡の子として生まれた。体格は雄偉で騎射を得意とした。趙王に封じられた。応暦10年(960年)10月、反乱を計画して発覚し、父の耶律李胡が連座して獄中で死去した。応暦11年(961年)2月、許された。ほどなく再び反乱して獄に下った。応暦19年(969年)2月、景宗が即位して大赦を発し、保寧と改元した。喜隠は赦令を聞くと、自らくびきを外して朝廷に参内した。景宗は怒って「おまえは罪人であるのに、なぜ勝手に禁所を離れたのか」と言い、喜隠を助けた者を処刑し、喜隠を再び獄中に置いた。4月、喜隠は許されて、睿智蕭皇后の姉を妻に迎え、爵位を回復して宋王に封じられた。
喜隠は軽はずみで決まった心がなく、少し順境にあると調子に乗っておごり高ぶった。帝が召し出しても行かないことが時々あり、帝の怒りを買って鞭打たれ、この恨みのために反乱を計画した。
左遷された後に再び召還された。景宗が劉継元に信書を送ろうとしたとき、謙遜した言葉を用いたので、喜隠は「本朝は北漢の宗主であり、信書がこのような文面であれば、国体をけがす恐れがあります」と言って諫めたので、景宗は文面を改めた。保寧9年(977年)6月、西南面招討使に任じられた。11月、400戸あまりの吐谷渾が反乱を起こして太原に入ると、喜隠がこれを捕縛して帰還させた。乾亨2年(980年)6月、またそそのかされて反乱を計画したので、景宗は喜隠の手足を拘束し、祖州に土牢を築かせて幽閉した。乾亨3年(981年)5月、北宋の降兵200人あまりが喜隠をさらって擁立しようとしたが、祖州の城が堅く侵入できなかったため、喜隠の子の耶律留礼寿を立てたと偽った。上京留守が土牢の部屋を撤去して喜隠父子を捕らえた。7月、耶律留礼寿は処刑された。乾亨4年(982年)7月、喜隠は死を賜った。
脚注
[編集]- ^ 『遼史』巻9, 景宗紀下 乾亨四年七月壬辰条による。
伝記資料
[編集]- 『遼史』巻72 列伝第2