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源光 (公卿)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源光
時代 平安時代前期
生誕 承和12年6月2日845年7月9日
死没 延喜13年3月12日913年4月21日
別名 西三条右大臣
官位 正二位右大臣正一位
主君 清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇醍醐天皇
氏族 仁明源氏
父母 父:仁明天皇、母:百済王豊俊の娘
兄弟 道康親王宗康親王時康親王人康親王本康親王国康親王常康親王貞登成康親王、新子内親王、親子内親王、平子内親王、柔子内親王、眞子内親王、重子内親王、久子内親王、時子内親王高子内親王
不詳
静、浄、興、賢
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源 光(みなもと の ひかる、承和12年〈845年〉 - 延喜13年〈913年〉)は、平安時代前期の公卿仁明天皇皇子(第三源氏)。官位正二位右大臣正一位西三条右大臣を号す。

経歴

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第一親等の皇族ながら、多くの兄弟と共に姓を賜って臣籍降下する。貞観2年(860年従四位上に直叙され、翌貞観3年(861年次侍従に任ぜられる。のち、美作守相模権守讃岐権守と地方官を歴任。貞観18年(876年正四位下左兵衛督に叙任され、相模権守・播磨権守と引き続き地方官を兼帯した。

元慶8年(884年光孝天皇の即位後参議に任ぜられ公卿に列す。宇多朝に入り、寛平3年(891年従三位中納言、寛平9年(897年権大納言と昇進する。

醍醐朝において、昌泰2年(899年)大納言に昇進するが、昌泰4年(901年)に発生した昌泰の変においては、藤原時平と結託し菅原道真を失脚させた張本人の一人とされ、道真の後任として正三位右大臣に叙任、邸宅の場所に因んで西三條右大臣と称された。のち、東宮傅右近衛大将を兼帯し、延喜3年(903年従二位に叙せられる。延喜9年(909年左大臣・藤原時平の薨去に伴い、太政官の首班を占めて左近衛大将を兼ね、翌延喜10年(910年)には正二位の高位に昇った。

延喜13年(913年)3月12日に鷹狩に出るが、不意に塹壕の泥沼の中に転落して溺死。遺体が上がらなかったことから、世人はこれを道真の怨霊の仕業として畏れ慄いたと伝わる。享年69。最終官位は右大臣兼左近衛大将正二位。死後、正一位追贈。なお、後任の右大臣には彼や時平とは違い、道真に好意を持っていた藤原忠平が就任した。

官歴

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注記のないものは『日本三代実録』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

  • 父:仁明天皇
  • 母:百済王豊俊の娘[2]
  • 妻:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:源静
    • 男子:源浄
    • 男子:源興
    • 男子:源賢

光やその兄弟を祖とする源氏の一群は、後世において仁明源氏と称された。光の孫の源満仲の女婿となり、嵯峨源氏源綱(渡辺綱)を養子としたことで知られる。またその後に出た源年は、立石盛国の姉妹と結婚し、間に儲けた盛行立石氏を名乗る事となった。彼から4代目の子孫が法然である[要出典]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 『公卿補任』
  2. ^ 三松俊雄編、栗原信充考『百済王三松氏系図』

出典

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  • 武田祐吉佐藤謙三 訳『読み下し 日本三代実録』上下、戎光祥出版、2009年。
  • 黒板勝美・国史大系編修会 編『公卿補任 第一篇』吉川弘文館新訂増補国史大系〉、1982年。
  • 黒板勝美・国史大系編修会 編『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、1987年。
  • 宝賀寿男 編著『古代氏族系譜集成』上中下、古代氏族研究会、1986年。国立国会図書館書誌ID:000001831027