恵宗 (高麗王)
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恵宗 王武 | |
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高麗 | |
第2代国王 | |
王朝 | 高麗 |
在位期間 | 943年7月5日 - 945年10月23日 |
姓・諱 | 王武 |
諡号 | 仁徳明孝宣顕高平景憲義恭大王 |
廟号 | 恵宗 |
生年 | 水徳万歳2年(912年) |
没年 |
開運2年9月15日 (945年10月23日) |
父 | 太祖 |
母 | 荘和王后 |
王后・王配 | 義和王后 |
妃嬪 | 下記参照 |
子女 | 下記参照 |
陵墓 | 順陵 |
恵宗 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 혜종 |
漢字: | 恵宗 |
発音: | フェジョン |
日本語読み: | けいそう |
ローマ字: | Emperor Hyejong |
各種表記(本名) | |
ハングル: | 왕무 |
漢字: | 王武 |
発音: | ウァンム |
日本語読み: | おうぶ |
ローマ字: | Wang Mu |
恵宗(けいそう、912年 - 945年10月23日)は第2代高麗王(在位:943年 - 945年)。姓は王、諱は武、諡号は仁徳明孝宣顕高平景憲義恭大王。字は承乾。太祖の長男。母は荘和王后呉氏。
生涯
[編集]912年に羅州で誕生した。父にとっては初めての子であった。長男であるにもかかわらず、母が三国時代の中国からの帰化人であり、高位家門の娘ではなかったため、即位までには多くの困難を伴った。そこで母の王后は朴述熙に後見人となるよう依頼し、朴述熙は武を王太子とするように主張したことで、921年に王太子となった。936年には後百済征伐に参戦している。
太祖の崩御後、程なくして王に即位した。しかし、実権は重臣で義父でもある王規(ワン・ギュ)に握られており、自身の権力は弱かった。また、異母弟の王尭・王昭等が王権を脅かす存在でもあった。即位後わずか2年で病死した。その死が突然だったことから、暗殺だったのではないかという説がある。陵墓は、開城にある順陵である。
家族
[編集]- 父:太祖
- 母:荘和王后 呉氏
- 弟:第4代国王 光宗(娘婿でもある。)
- 王后:義和王后 林氏(大匡 林曦の娘。生没年不詳。本貫は鎭川 林氏。)
- 長男:興化君(?-960年。後に光宗に処刑された。)
- 長女:慶和宮夫人(第4代国王光宗の妃。?~960年。)
- 次女:貞憲公主(生没年不詳。婚姻の有無も不詳。)
- 後宮:後広州院夫人 王氏(王規の娘。太祖の第15妃広州院夫人、第16妃小広州院夫人と姉妹。生没年不詳。)
- 後宮:清州院夫人 金氏(元甫 金兢律の娘。第3代国王定宗の妃清州南院夫人 金氏と姉妹。生没年不詳。本貫は清州金氏。)
- 後宮:宮人哀伊主(大干 連乂の娘。生没年不詳。)
- 次男:太子 王済
- 三女:明恵夫人
参考文献
[編集]- 高麗史1巻-世家1-太祖
- 「アジア人物史 3」 集英社 2023年