アンナ・ド・コンスタンティノープル
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アンナ・ド・コンスタンティノープル Anna de Constantinople | |
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ローマ皇后 イタリア王妃 | |
在位 |
ローマ皇后:901年2月22日 - 905年7月21日 イタリア王妃:900年 - 905年 |
出生 |
885年 東ローマ帝国、コンスタンティノープル |
死去 |
912年 |
埋葬 | 東ローマ帝国、コンスタンティノープル |
配偶者 | ルイ3世 |
子女 |
シャルル・コンスタンティン? アンナ? |
家名 | マケドニア家 |
父親 | 東ローマ皇帝レオーン6世 |
母親 | ゾエ・ザウツァイナ |
宗教 | キリスト教 |
アンナ・ド・コンスタンティノープル(フランス語:Anne de Constantinople, イタリア語:Anna di Costantinopoli, 885年 - 912年)は、東ローマ帝国皇女、ローマ皇后およびイタリア王妃。
生涯
[編集]アンナは東ローマ皇帝レオーン6世とゾエ・ザウツァイナとの間の娘である。
セティパニ(Christian Settipani)によると、コンスタンティノープル大司教ニコラオス1世の手紙において、レオーン6世とゾエとの間の次女と、プロヴァンス王・ローマ皇帝ルイ3世との結婚のための交渉について言及しているという。この交渉が成功したか否か、および結婚が実際に行われたかどうかは不明である。アンナはルイ3世と結婚しなかったとする歴史家もいる。
一方、セティパニおよび一部の系図学者は、結婚式は900年代に行われ、この結婚により、西ローマ帝国と東ローマ帝国の帝室が結ばれたとする。そしてこの結婚により、シャルル・コンスタンティンが生まれ、その名前こそが西と東の融合を示すとしている。また、ベレンガーリオ1世の2番目の妃アンナは、ルイ3世とアンナとの間の娘といわれている。
アンナはコンスタンティノープルに葬られたが、それはアンナが結婚せずコンスタンティノープルで生涯を送ったという根拠ともされている。
参考文献
[編集]- John Julius Norwich, Bisanzio, Collana Storia, Milano, Mondadori, 2000, ISBN 88-04-48185-4.
- 根津由喜夫「二人のビザンツ皇女の運命:「ジラール・ド・ルシヨン」を読み解く」『金沢大学文学部論集. 史学・考古学・地理学篇』第27巻、金沢大学文学部、2007年3月、161-202頁、CRID 1050564285878447744、hdl:2297/3854、ISSN 1342-4270。