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グイード1世・ディ・スポレート

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
グイード1世・ディ・スポレート
Guido I di Spoleto
スポレート公
在位 842年 - 860年

死去 860年
配偶者 イッタ・ディ・ベネヴェント
子女 ロチルデ
ランベルト1世
グイード3世
家名 ヴィドー家
父親 ナント伯ランベール1世
母親 イタリア王ピピンの娘?
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グイード1世・ディ・スポレートまたはグイドーネ(Guido I da Spoleto / Guidone, ? - 860年)は、スポレート公(在位:842年 - 860年)である。息子にイタリア王ローマ皇帝となったグイード3世・ダ・スポレートがいる。ムラトーリ(en)の著書の843年の項には、グイードはスポレート侯をしていたとされており[1]、ブリツィオによればイヴレーア侯をしていたという。

生涯

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834年にはロタール1世の側近の1人であったナント伯ランベール1世の息子として言及されている。840年の皇帝ルートヴィヒの死去により、ロタリンギアにあるメットラハの修道院を与えられた。シコーネ1世ディ・ベネヴェントの娘、イッタと結婚。

843年には839年のシカルド公の暗殺に続いたベネヴェント内戦に、義理の兄弟であるシコノルフォの求めに応じて介入した。様々な抗争において1度ならず仲裁人として介入を行ったが、結局ロタールの後継人ルートヴィヒ2世でなければ紛争を終結させることはできなかった。

846年にはサンピエトロの略奪を行ったサラセン人を、独力でラーツィオの外へ追いやることに成功した。

858年、グイードはカープア伯ランドーネ1世に対し敗北したアデマーロ・ディ・サレルノを支持し、この功によりカープア伯の兄弟であるランデルノルフォ1世・ディ・テアーノに奪われたリーリ渓谷ソーラアルピーノの支配をまかされた。

860年に死去、長子ランベルト1世がスポレート公位を継承した。

子女

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イッタ・ディ・ベネヴェントとの間に以下の子女をもうけた。

  • ロチルデ - トスカーナ辺境伯アダルベルト1世と結婚
  • ランベルト1世 - スポレート公(859年 - 871年、876年 - 880年)
  • グイード3世 - イタリア王

脚注

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  1. ^ Ludovico Antonio Muratori, Annali d'Italia: dal principio dell'era volgare sino all'anno MDCCXLIX, Tomo VII, Milano: Giambattista Pasquali, 1753, p. 273([1]

出典

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  • Llewellyn, Peter. Rome in the Dark Ages. London: Faber and Faber, 1970. ISBN 0-571-08972-0.
  • di Carpegna Falconieri, Tommaso. Guido, in Dizionario biografico degli italiani, 61, Roma: Istituto della Enciclopedia italiana, 2003, pp. 352-354.

関連項目

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先代
ベレンガーリオ
スポレート公
842年 - 860年
次代
ランベルト1世