紀百継
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時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 天平宝字8年(764年) |
死没 | 承和3年9月19日(836年11月1日) |
官位 | 従二位・参議 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇 |
氏族 | 紀氏 |
父母 | 父:紀木津魚 |
兄弟 | 百継、是継、継勝、最弟、乙魚、魚員 |
子 | 綱麻呂、諸綱 |
紀 百継(き の ももつぐ)は、平安時代初期の公卿。右兵衛督・紀木津魚の長男。官位は従二位・参議。
経歴
[編集]桓武朝では、右衛士少尉・近衛将監と武官を歴任し、延暦20年(801年)従五位下に叙せられた。平城朝に入っても、近衛将監から左/右衛士佐と武官を務める傍ら、越後介・上野権介・越前介と地方官を兼ねた。
弘仁元年(810年)に発生した薬子の変に際して左衛士佐から右近衛少将に転任する。以降、弘仁2年(811年)従五位上、弘仁3年(812年)従四位下・右近衛中将、弘仁8年(817年)従四位上、弘仁12年(821年)正四位下と嵯峨朝において急速に昇進し、弘仁13年(822年)従三位に叙せられ公卿に列した。また、この間近衛中将・兵部大輔・右衛門督等の武官を歴任し、美濃守・相模守と地方官を兼帯した。
その後も右衛門督を務めながら淳和朝でも累進し、天長8年(831年)正三位、天長10年(833年)従二位に至り、仁明朝の承和2年(835年)には71歳で参議に任ぜられた。承和3年(836年)9月19日薨去。享年73。最終官位は参議従二位。
官歴
[編集]注記のないものは『六国史』による。
- 時期不詳:正六位上
- 延暦19年(800年) 6月:右衛士少尉[1]
- 延暦20年(801年) 2月:従五位下[1]
- 延暦23年(804年) 6月:右近衛将監[1]
- 延暦25年(806年) 正月28日:越後介。4月18日:右衛士権佐、越後介如故
- 大同2年(809年) 9月:右衛士佐[1]
- 大同3年(808年) 6月21日:上野権介、右衛士佐如故。7月9日:兼越前介。7月22日:左衛士権佐。8月22日:左衛士佐。越前介如故
- 弘仁元年(810年) 9月10日:右近衛少将、下野介如故
- 弘仁2年(811年) 6月1日:従五位上
- 弘仁3年(812年) 正月7日:正五位上(越階)。正月8日:従四位下。正月12日:右近衛中将
- 弘仁6年(815年) 正月10日:兼美濃守
- 弘仁7年(816年) 正月:兵部大輔[1]
- 弘仁8年(817年) 正月7日:従四位上
- 弘仁9年(818年) 正月10日:兼相模守[2]
- 弘仁12年(821年) 日付不詳:内蔵大舎人頭[1]。正月7日:正四位下[1]
- 弘仁13年(822年) 10月1日:従三位、右衛門督如元[1]
- 弘仁14年(823年) 正月11日:兼播磨権守[1]
- 天長5年(828年) 日付不詳:兼信濃守[1]
- 天長6年(829年) 正月13日:兼近江守[1]
- 天長8年(831年) 正月4日:正三位
- 天長10年(833年) 11月18日:従二位
- 承和2年(835年) 7月20日:参議、辞右衛門督[1]
- 承和3年(836年) 9月19日:薨去(参議従二位)