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石川道益

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石川道益
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 天平宝字7年(763年
死没 延暦24年7月(805年8月)以前
官位 従五位上遣唐副使従四位上
主君 桓武天皇
氏族 蘇我氏石川氏
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石川 道益(いしかわ の みちます)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族官位従五位上遣唐副使従四位上

経歴

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桓武朝延暦16年(797年従五位下叙爵し、但馬介に任ぜられる。延暦20年(801年)遣唐副使に任ぜられる(遣唐大使は藤原葛野麻呂)。延暦22年(803年)3月に遣唐使節に対する餞別の宴が行われ、道益は御衣一襲と金150両を与えられる。4月に葛野麻呂と共に節刀を授けられて難波津より出航するが、まもなく暴風雨を受けて遣唐使船が破損して航海が不可能となる[1]。翌延暦23年(804年)7月に最澄らと共に第二船に乗船してに渡り、無事に明州に到着する。しかし、病に伏し、延暦24年(805年長安へ出発できないまま明州で没した[2]享年43。同年7月に大使・葛野麻呂以下遣唐使節一行が帰国して功労の叙位が行われた際、道益は従四位下を贈られた。

仁明朝承和3年(836年)遣唐使として渡唐するも客死した8名に叙位が行われ、道益は従四品上の位階を贈られた[2]

人物

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甚だ才能があり、書記に通じる一方で、行儀作法も美しかった。唐で没したことを朝廷に惜しまれたという[3]

冥界での道益の思いを受けて、道益の墳墓には霊芝が生えていたとされる[2]

経歴

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六国史』による。

脚注

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  1. ^ 『日本後紀』延暦23年4月2日,23日条
  2. ^ a b c 続日本後紀』承和3年5月10日条
  3. ^ 『日本後紀』延暦24年7月25日条

参考文献

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