石川道益
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時代 | 奈良時代 - 平安時代初期 |
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生誕 | 天平宝字7年(763年) |
死没 | 延暦24年7月(805年8月)以前 |
官位 | 従五位上・遣唐副使、贈従四位上 |
主君 | 桓武天皇 |
氏族 | 蘇我氏流石川氏 |
石川 道益(いしかわ の みちます)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。官位は従五位上・遣唐副使、贈従四位上。
経歴
[編集]桓武朝の延暦16年(797年)従五位下に叙爵し、但馬介に任ぜられる。延暦20年(801年)遣唐副使に任ぜられる(遣唐大使は藤原葛野麻呂)。延暦22年(803年)3月に遣唐使節に対する餞別の宴が行われ、道益は御衣一襲と金150両を与えられる。4月に葛野麻呂と共に節刀を授けられて難波津より出航するが、まもなく暴風雨を受けて遣唐使船が破損して航海が不可能となる[1]。翌延暦23年(804年)7月に最澄らと共に第二船に乗船して唐に渡り、無事に明州に到着する。しかし、病に伏し、延暦24年(805年)長安へ出発できないまま明州で没した[2]。享年43。同年7月に大使・葛野麻呂以下遣唐使節一行が帰国して功労の叙位が行われた際、道益は従四位下を贈られた。
仁明朝の承和3年(836年)遣唐使として渡唐するも客死した8名に叙位が行われ、道益は従四品上の位階を贈られた[2]。
人物
[編集]甚だ才能があり、書記に通じる一方で、行儀作法も美しかった。唐で没したことを朝廷に惜しまれたという[3]。
冥界での道益の思いを受けて、道益の墳墓には霊芝が生えていたとされる[2]。
経歴
[編集]『六国史』による。
- 延暦16年(797年) 正月7日:従五位下。正月13日:但馬介
- 延暦20年(801年) 8月10日:遣唐副使
- 延暦22年(803年) 4月2日:見従五位上
- 時期不詳:卒去(遣唐副使従五位上)
- 延暦24年(805年) 7月25日:贈従四位下
- 承和3年(836年) 5月10日:贈従四品上