石川真守
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時代 | 奈良時代中期 - 平安時代初期 |
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生誕 | 神亀6年(729年)? |
死没 | 延暦17年8月19日(798年10月3日) |
官位 | 正四位上、参議 |
主君 | 称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇 |
氏族 | 蘇我氏流石川氏 |
石川 真守(いしかわ の まもり)は、奈良時代中期から平安時代初期にかけての公卿。大臣・蘇我馬子の後裔。官位は正四位上・参議。
経歴
[編集]称徳朝の天平神護2年(766年)従五位下・近江介に叙任。のち、右京亮・中務少輔を歴任する。
神護景雲4年(770年)称徳天皇の崩御後まもなく少納言に任ぜられ、宝亀2年(771年)従五位上に叙せられるが、翌宝亀3年(772年)遠江守次いで越中守として地方官に転じる。宝亀7年(776年)中務少輔次いで式部少輔に任ぜられて京官に復し、宝亀11年(780年)正五位下に叙せられている。
桓武朝に入り、延暦2年(783年)従四位下・大宰大弐に叙任される。大宰府での官職を勤め上げ、延暦9年(790年)参議兼右大弁となり公卿に列した。議政官として右大弁・大宰大弐・刑部卿などを歴任する一方、延暦10年(791年)従四位上、延暦13年(794年)正四位下、延暦15年(796年)正四位上と昇進している。
延暦17年(798年)4月に致仕し、同年8月19日卒去。享年70[1]。結果的に石川氏(蘇我氏)からの最後の公卿となった。
官歴
[編集]注釈のないものは『六国史』による。
- 天平神護2年(766年) 7月22日:従五位下。7月:近江介[1]。
- 天平神護3年(767年) 7月3日:右京亮
- 神護景雲2年(768年) 11月13日:中務少輔
- 神護景雲4年(770年) 9月16日:少納言
- 宝亀2年(771年) 11月25日:従五位上
- 宝亀3年(772年) 4月20日:遠江守。4月27日:越中守
- 宝亀7年(776年) 3月6日:中務少輔。3月24日:式部少輔
- 宝亀11年(780年) 正月7日:正五位下
- 天応元年(781年) 5月25日:兼武蔵守
- 延暦元年(782年) 8月25日:兼式部大輔
- 延暦2年(783年) 正月16日:正五位上。5月15日:従四位下・大宰大弐
- 延暦9年(790年) 2月27日:参議。7月24日:右大弁
- 延暦10年(791年) 正月7日:従四位上。7月4日:兼右京大夫
- 延暦11年(792年) 2月2日:兼大和守[1]。4月:兼左京大夫[1]
- 延暦12年(793年) 3月:大宰大弐[1]
- 延暦13年(794年) 正月:正四位下[1]
- 延暦14年(795年) 正月:兼下総守[1]
- 延暦15年(796年) 7月28日:正四位上
- 延暦16年(797年) 3月11日:兼刑部卿
- 延暦17年(798年) 4月15日:致仕[1]。8月19日:卒去[1]