咄陸可汗
咄陸可汗(Türük qaγan、漢音:とつりくかがん、拼音:Duōlù kĕhàn、? - 634年)は、西突厥の可汗。莫賀設の子。咄陸可汗(テュルク・カガン)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は泥孰(でいしゅく)という。大渡可汗(たいとかがん)とも称した。
生涯
[編集]莫賀設(バガ・シャド:官名)の子として生まれる。父の莫賀設は統葉護可汗(トン・ヤブグ・カガン)に仕え、武徳年間(618年 - 626年)に西突厥の遣使として唐に赴き、李世民と兄弟の契りを結んだ。
莫賀設が死ぬと、泥孰は後を継いで伽那設(カーナー・シャド Kānā Šad:官名)[1]となり、後に莫賀設となった。
貞観2年(628年)、莫賀咄(バガテュル)が統葉護可汗を殺して大可汗となると、弩失畢部は泥孰を可汗に推戴しようとしたが、泥孰はこれを固辞し、別に統葉護可汗の子の肆葉護可汗を即位させた。
貞観4年(630年)、肆葉護可汗は兵を興して莫賀咄可汗を撃ち、これを大敗させた。莫賀咄可汗は金山(アルタイ山脈)に遁走するが、泥孰に殺された。
貞観6年(632年)、泥孰は肆葉護可汗に命を狙われるようになり、焉耆国へ亡命した。一方で肆葉護可汗の暴虐ぶりに耐えかねた設卑達干(没卑達干)は、弩失畢部の諸豪と肆葉護可汗の廃位を謀り、遂に肆葉護可汗を放逐した。これにより西突厥の国人たちは泥孰を焉耆で迎えて即位させ、咄陸可汗(テュルク・カガン)とした。咄陸可汗は大可汗となると、さっそく唐へ遣使を送って臣下の礼をとった。そこで唐の太宗は咄陸可汗に名号と鼓纛を賜うことにした。
貞観7年(633年)、太宗は鴻臚少卿の劉善を西突厥へ派遣して、咄陸可汗に呑阿婁拔奚利邲咄陸可汗(とんあろうはつけいりひつとつりくかがん)の称号を与えた。これに対して咄陸可汗はまた遣使を送って感謝を述べた。
貞観8年(634年)、咄陸可汗が卒去し、その弟の同娥設(トンガ・シャド Toŋa Šad:官名)[2]が立ち、沙鉢羅咥利失可汗(イシュバラ・テリシュ・カガン)となった。