高湜
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高 湜(こう しょく、538年 - 560年)は、中国の北斉の皇族。高陽康穆王。高歓の十一男[1][2][3]。母は游氏[4][5][6]。字は須達[7]。
経歴
[編集]天保元年(550年)5月に北斉が建てられると、6月に高湜は高陽王に封ぜられた[8][9][10]。天保10年(559年)閏4月、侍中から尚書右僕射に転じた[11][12]。11月、尚書左僕射に進んだ[13][14][15]。
高湜は滑稽でもって文宣帝に愛され、常に側近に仕えて、諸王に鞭撻した。婁太后は高湜のことをうとましく考えていた。高湜の妃の父の張晏之が道で高湜に挨拶したとき、高湜は返礼しなかった。文宣帝がその理由を訊ねると、高湜は「官職のない男にどうして礼すべきでしょうか」と答えた。そこで文宣帝は張晏之を抜擢して徐州刺史とした。10月に文宣帝が死去すると、高湜は司徒を兼任し、葬儀において笛を吹き胡鼓を打って音楽とした。このため婁太后は高湜を百回あまり鞭打った[1][2][16]。乾明元年(560年)2月6日[17][18]、その傷がもとで鄴の邸で死去した。享年は23[17]。婁太后は「死なせるつもりはなかった」と言って泣き悲しんだ。仮黄鉞・太師・司徒・録尚書事・雲州刺史の位を追贈された[1][2][19]。諡は康穆といった。
脚注
[編集]- ^ a b c d 氣賀澤 2021, p. 167.
- ^ a b c d 北斉書 1972, p. 138.
- ^ 北史 1974, p. 1866.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 155.
- ^ 北斉書 1972, p. 131.
- ^ 北史 1974, p. 1859.
- ^ 趙 2008, p. 409.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 79.
- ^ 北斉書 1972, p. 52.
- ^ 北史 1974, p. 246.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 97.
- ^ 北斉書 1972, p. 66.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 102.
- ^ 北斉書 1972, p. 74.
- ^ 北史 1974, p. 256.
- ^ 北史 1974, pp. 1866–1867.
- ^ a b 趙 2008, p. 410.
- ^ 『北斉書』廃帝紀および『北史』斉紀中は高湜の死を乾明元年春正月癸亥のこととする。本記事では墓誌の記述を採用する。
- ^ a b 北史 1974, p. 1867.
伝記資料
[編集]参考文献
[編集]- 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
- 趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』天津古籍出版社、2008年。ISBN 978-7-80696-503-0。