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高湜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高 湜(こう しょく、538年 - 560年)は、中国北斉皇族。高陽康穆王。高歓の十一男[1][2][3]。母は游氏[4][5][6]は須達[7]

経歴

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天保元年(550年)5月に北斉が建てられると、6月に高湜は高陽王に封ぜられた[8][9][10]。天保10年(559年)閏4月、侍中から尚書右僕射に転じた[11][12]。11月、尚書左僕射に進んだ[13][14][15]

高湜は滑稽でもって文宣帝に愛され、常に側近に仕えて、諸王に鞭撻した。婁太后は高湜のことをうとましく考えていた。高湜の妃の父の張晏之が道で高湜に挨拶したとき、高湜は返礼しなかった。文宣帝がその理由を訊ねると、高湜は「官職のない男にどうして礼すべきでしょうか」と答えた。そこで文宣帝は張晏之を抜擢して徐州刺史とした。10月に文宣帝が死去すると、高湜は司徒を兼任し、葬儀において笛を吹き胡鼓を打って音楽とした。このため婁太后は高湜を百回あまり鞭打った[1][2][16]乾明元年(560年)2月6日[17][18]、その傷がもとで鄴の邸で死去した。享年は23[17]。婁太后は「死なせるつもりはなかった」と言って泣き悲しんだ。仮黄鉞・太師司徒録尚書事雲州刺史の位を追贈された[1][2][19]は康穆といった。

子の高士義が爵位を嗣いだ[1][2][19]

脚注

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  1. ^ a b c d 氣賀澤 2021, p. 167.
  2. ^ a b c d 北斉書 1972, p. 138.
  3. ^ 北史 1974, p. 1866.
  4. ^ 氣賀澤 2021, p. 155.
  5. ^ 北斉書 1972, p. 131.
  6. ^ 北史 1974, p. 1859.
  7. ^ 趙 2008, p. 409.
  8. ^ 氣賀澤 2021, p. 79.
  9. ^ 北斉書 1972, p. 52.
  10. ^ 北史 1974, p. 246.
  11. ^ 氣賀澤 2021, p. 97.
  12. ^ 北斉書 1972, p. 66.
  13. ^ 氣賀澤 2021, p. 102.
  14. ^ 北斉書 1972, p. 74.
  15. ^ 北史 1974, p. 256.
  16. ^ 北史 1974, pp. 1866–1867.
  17. ^ a b 趙 2008, p. 410.
  18. ^ 『北斉書』廃帝紀および『北史』斉紀中は高湜の死を乾明元年春正月癸亥のこととする。本記事では墓誌の記述を採用する。
  19. ^ a b 北史 1974, p. 1867.

伝記資料

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参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4 
  • 趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』天津古籍出版社、2008年。ISBN 978-7-80696-503-0