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智証麻立干

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
智証麻立干
各種表記
ハングル 지증 마립간
漢字 智證麻立干
発音 チジュン・マリッカン
日本語読み: ちしょう・まりつかん
ローマ字 Jijeung Maripgan
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智証麻立干(ちしょう まりつかん、437年 - 514年)は、新羅の第22代の王(在位:500年 - 514年)であり、姓は金、は智大路、または智度路、智哲老。『三国遺事』では智哲老王智訂麻立干とも記される。第17代奈勿尼師今の曾孫であり、先代の炤知麻立干とは再従兄弟となる。父は習宝葛文王、母は第19代訥祇麻立干の娘の鳥生夫人。王妃は伊飡(2等官)の朴登欣の娘の延帝夫人[1]。500年11月に炤知麻立干が死去したときに、子供がなかったので智大路が64歳で王位を継いだ。国号・王号の統一や軍制・官制などの整備を通して、新羅の国家形成を飛躍的に進めたと見られている。

治世

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新羅には殉葬の風習が残っており、先代の王の炤知麻立干の死に当たっても男女5人が殉葬されていたが、502年3月に以後の殉葬を禁止することとした。503年10月には群臣の上奏を受けて、斯羅・斯盧・新羅などと称していた国号を新羅に、居西干・次次雄・尼師今・麻立干などと称した君主号を王にそれぞれ統一し、正式に新羅国王と号することとした[2]

506年には国内の州郡県制を定めるとともに悉直州(現在の江原道三陟市)を置き、地方軍主[3]の官を設けて異斯夫(いしふ、이사부)を登用した。後に異斯夫を何瑟羅(江原道江陵市)軍主に任じ、于山国鬱陵島)を服属させた。

509年には王都金城に東の市場を開かせ、前後して市場を管理する市典(東市典)の官を設けた。また、514年1月には阿尸村(慶尚南道咸安郡[4])に小京を置いて六部や南方からの入植を奨励し、小京の充実を図った。

在位15年にして514年7月に死去し、智証とされた。新羅の諡はこの智証麻立干(智証王)代に始まるとされる[5]

三国遺事』によると、智証麻立干の夫人延帝夫人は、大便の大きさでに選ばれたとのこと。[6]

三國遣事 新羅 第二十二智哲老王第二十二智哲老王. 姓金氏. 名智大路. 又智度路, 諡曰智證. 諡號始于此. 又鄕稱王爲麻立干者. 自此王始. 王以永元二年庚辰卽位. 王陰長一尺五寸. 難於嘉偶. 發使三道求之. 使至牟梁部冬老樹下. 見二狗嚙(요)<물다> 一屎塊如鼓大. 爭嚙其兩端. 訪於里人. 有一小女告云. 此部相公之女子洗澣于此. 隱林而所遺也. 尋其家檢之. 身長七尺五寸. 具事奏聞. 王遣車邀入宮中. 封爲皇后. 群臣皆賀.

脚注

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  1. ^ 智証麻立干の系譜について『三国遺事』王暦では、父は訥祇麻立干の弟の期宝葛文王、母は訥祇麻立干の娘の鳥生夫人、王妃は登許斤角干の娘の迎帝夫人於欖代とする。
  2. ^ 1989年に発見された迎日冷水碑文によると、智証麻立干が503年9月時点では「王」ではなく「葛文王」と称されていたことが分かっている。
  3. ^ 軍主そのものは、第9代伐休尼師今の時代(185年)に中央軍主の官が設けられている。
  4. ^ 阿尸村については旧の阿尸良国(阿那加耶)にあたるものとして咸安郡に比定する説が有力であるが、他に昌寧郡とする説、慶州市(かつての月城郡安康邑)とする説もある。(→井上訳注1980 p.125)
  5. ^ 『三国遺事』紀異・智哲老王条においても智証王から諡が始まるとしているが、『三国遺事』王暦では法興王からのこととしている。
  6. ^ 崔来沃 著、川上新二 訳「屎」、韓國文化象徴辭典編纂委員會 編『韓国文化シンボル事典』平凡社、2006年、272頁。ISBN 458213601X 

参考文献

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