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桓偉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

桓 偉(かん い、生年不詳 - 403年)は、東晋末期の軍人政治家幼道譙国竜亢県の人。東晋の大司馬桓温の子。東晋に仕え、桓氏一族の発展に貢献した。

生涯

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東晋に仕え、隆安3年(399年)12月、南蛮校尉姚広に代わり、輔国将軍・南蛮校尉に任じられた。荊州刺史殷仲堪が東晋に反乱を起こし、江州刺史桓玄が討伐にやってきた。桓玄は密書を桓偉に送り、内応の指示を送った。桓偉は多忙のため、内応の指示を知らず、殷仲堪に桓玄らと戦うと述べた。殷仲堪は桓偉を捕らえ、桓玄に書を送り、味方するように指示した。桓偉は断ったため、捕われたままとなった。

隆安4年(400年)3月、冠軍将軍・雍州刺史に任じられた。

隆安5年(401年)12月、桓玄の上表により、江州刺史に任じられ、夏口に鎮した。

元興元年(402年)1月、桓玄は桓偉に江陵の守りを任せ、驃騎大将軍司馬元顕の討伐に向かった。

3月、安西将軍・使持節・都督荊益寧秦梁五州諸軍事・南蛮校尉・荊州刺史に任じられ、西昌侯に封じられた。

元興2年(403年)8月、亡くなった。開府儀同三司・驃騎将軍を贈位され、爵位は桓玄が継いだ。

同年12月、桓楚が建国されると、大将軍侍中を贈位され、義興郡王に封じられた。子の桓浚が爵位を継いだ。

人物・逸話

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  • 情に厚く誠実であり、桓偉が治めていた領民から慕われていた[1]
  • 桓偉が殷仲堪に捕われたと聞いた桓玄は、殷仲堪が優柔不断な性格を見抜き、桓偉の身は心配ないと論じた。殷仲堪の死後、桓偉は無事で桓玄の言う通りになった[2]
  • 桓偉の死後、桓玄は喪に服すにあたり、楽曲を作った。曲が始まると、桓玄は歌いながら慟哭した。涙を抑えると、大いに楽しんだ。桓偉は桓玄に唯一親任されていた存在であり、桓玄は親任する存在がいないことを危ぶんだ[3]
  • 桓玄は桓偉が葬られた日、朝は慟哭して晩は大いに楽しんだ。或いはたびたび外へ出て、馬で駆けるほど、桓偉の死を悼んだ[3]

家系

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兄弟

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子女

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脚注

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  1. ^ 『晋書』巻98 桓温
  2. ^ 『資治通鑑』巻111
  3. ^ a b 『晋書』巻99 桓玄

参考文献

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