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申恬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

申 恬(しん てん、388年 - 456年)は、南朝宋官僚軍人は公休。本貫魏郡魏県

経歴

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申宣(申鍾の孫)の子として生まれた。はじめ劉道憐の下で驃騎行参軍をつとめた。永初元年(420年)、劉裕が帝位につくと、申恬は東宮殿中将軍となった。宮中に宿直すること10年に及んだが、休息を求めることがなかった。元嘉年間、員外散騎侍郎の位を受け、綏遠将軍・下邳郡太守として出向した。次いで北海郡太守に転じ、寧遠将軍の号を加えられた。さらに北譙梁二郡太守をつとめた。

元嘉12年(435年)、都督魯東平済北三郡諸軍事・泰山郡太守に任じられた。臨川王劉義慶江陵に駐屯すると、申恬はその下で平西中兵参軍・河東郡太守となった。元嘉16年(439年)、衡陽王劉義季が劉義慶に代わって安西将軍・荊州刺史となると、申恬は安西府に入り、寧朔将軍の号を加えられた。後に建康に召還されて太子屯騎校尉となったが、母が死去したため辞職して喪に服した。

元嘉21年(444年)、冀州が歴城に移鎮されると、申恬は都督冀州青州之済南楽安太原三郡諸軍事・揚烈将軍・冀州刺史に任じられた。元嘉22年(445年)、済南郡太守の任を加えられた。元嘉23年(446年)、北魏の永昌王拓跋仁や高涼王拓跋那らの侵攻を受け、申恬は出撃して魏軍に敗れると、建康に召還された。

元嘉27年(450年)、通直散騎常侍として再び起用された。北魏の武昌王拓跋提が青州に侵攻してくると、申恬は援軍として東陽に派遣され、斉郡太守の龐秀之とともに東陽城を守った。魏軍が撤退すると、申恬は寧朔将軍・山陽郡太守に任じられた。元嘉30年(453年)6月、青州刺史に転じた。まもなく都督徐州之東莞東安二郡諸軍事の任を加えられた。孝建元年(454年)、さらに都督冀州諸軍事の任を加えられ、輔国将軍の号を受けた。

孝建2年(455年)8月、都督豫州諸軍事・寧朔将軍・豫州刺史に転じた。

孝建3年(456年)、病のため建康に召還され、道中で死去した。享年は69。

子の申寔は、南譙郡太守となったが、早逝した。

伝記資料

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