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綾部暁月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

綾部 暁月(あやべ きょうげつ、明治4年(1871年[1]) - 昭和34年(1959年)7月12日)は、明治時代から昭和時代にかけての浮世絵師

来歴

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河鍋暁斎及び河鍋暁翠の門人。姓は綾部、名はりう。旗本出身の士族で木彫り師の桑原三(みたび)の長女として本郷に生まれた。幼時に綾部家を継ぐこととなったとする資料もあるが[2]、『河鍋暁斎絵日記』や明治25年(1892年)から明治28年(1895年)の表彰状はみな桑原姓で、綾部家に養子に入ったのはそれ以降だと考えられる[3]。暁月は独り綾部家の位牌を河鍋家の仏壇に合祀し、名実ともに河鍋家の一員として同家にて生涯をすごしている。暁月が何歳で暁斎の門人となったかは未詳であるが、かなりの年少時代であったと思われる。父と刎頚の友であった暁斎を師とし、3歳年上の暁翠を姉そして学友とし、恵まれた環境の下、絵の修業に精進した。暁斎の女流門人で、特に晩年、河鍋家と懇意であった。明治22年(1889年)に暁斎が没すると、その娘、暁翠に入門している。この時、暁翠は22歳であり、河鍋家の全てが若い暁翠の双肩にかかっており、これまで内弟子としてのみの存在であった暁月の立場は一変、河鍋家を支える重要な存在となったのであった。暁翠が明治40年(1907年)、一女吉(よし)を生んだ際には、当時、女子美術学校で教鞭を執っていた暁翠の代わりに、暁月が代稽古として大変重要な役割を果たしている。さらに、昭和6年(1931年)にいたり、吉が二人の女子を生んだ際にも、暁月は能くその面倒をみていたといわれる。また、能書家であり、和漢の故事にも通じていて、記憶力もよかったため、暁翠にとても頼りにされていた。

暁翠と暁月の肉筆画の合作に「鬼の耳を掃除する美人」がある。また、「花魁図」には、「暁翠」の落款があるが、実際には暁月の作品である。それは「翠」の文字の先が丸くなく、鋭角にはねており、また「翠」の字自体が上がり、簡略化されているため、暁翠の作品ではなくて、暁月による作品であると推定される。暁月は河鍋家において、家族の一員として愛され可愛がられ、尊敬されており、功労のあった暁月自らも河鍋家に対し心からの感謝を捧げつつ、綾部家の位牌を護り、89歳という長寿を全うして永眠した。墓所は四谷須賀町の顕性寺。享年89。

作品

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  • 「花魁図」 絹本着色 河鍋暁斎記念美術館所蔵
  • 「払子を持つ美人」 絹本淡彩 河鍋暁斎記念美術館所蔵
  • 「鬼の耳を掃除する美人」 紙本墨画 河鍋暁斎記念美術館所蔵 暁翠と合作
  • 「芦葉(ろよう)達磨の下絵」 田中百郎所蔵 昭和11年 66歳の時の作品 
  • 「馬の線書き」 田中百郎所蔵 昭和11年 66歳の時の作品
  • 「白式尉(はくしきじょう)と中啓」 黒紋付羽織裏地白羽二重に極彩色 田中百郎所蔵 昭和11年 66歳の時の作品
  • 「恵比寿・大黒の万才戯画」 暁斎の線書きに彩色のみ 田中百郎所蔵 昭和11年 66歳の時の作品
  • 「温公甕割図 模写」 紙本墨画 明治32年 河鍋暁斎記念美術館所蔵

脚注

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  1. ^ 『原色浮世絵大百科事典』第2巻は、暁月の生年を明治2年(1869年)とし、享年を91としている。
  2. ^ 田中(1981)
  3. ^ 河鍋(2018)

参考文献

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  • 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』第2巻 大修館書店、1982年
  • 田中百郎 「河鍋家二代にわたる内弟子 「暁月」について」『暁斎』 第6号、河鍋暁斎記念美術館、1981年
  • 河鍋楠美 「暁月の事跡とその作品」『暁斎』第126号、河鍋暁斎記念美術館、2018年9月25日、pp.44-46