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村松茂清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

村松 茂清(むらまつ しげきよ、通称:九太夫1608年慶長13年)? - 1695年元禄8年))は、江戸時代数学者和算家である。

常陸国那珂郡出身で、1663年に全3巻からなる体積について記載のある『算爼』を著し、同年に日本で初めて円周率小数第7桁まで数学的に計算した数学者として知られる[1][2]。また、今村知商と並んで円理研究に於ける先駆者だった。

のちに赤穂藩浅野家に仕え、養子村松秀直赤穂浪士のひとりとなっている。弟子には矢部定玄樋口兼次片岡豊忠湯浅得之野村政茂らがいる[3]

生涯

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1608年頃に常陸国那珂郡村松村(現在の茨城県那珂郡東海村)で生まれ、水戸藩で和算家の平賀保秀に弟子入りする。播磨国赤穂藩(現:兵庫県)で藩主浅野氏に仕えた。江戸で数学を指導している際に1639年漢文で書かれた当時に於ける数学の教科書だった今村知商著の『堅亥録』を基にして1663年に全3巻からなる新しい数学の教科書である『算爼』を著した。

また、1663年に日本で初めて円周率を数学的に計算した数学者であり、最初は内接する正四角形正八角形、正六十四角形の長さを計算していくと、やがて正32768角形にたどり着き、円周率を実際は小数第21桁まで算出したが、正しかった数値は小数第7桁までだった。

その後は1681年頃に和算家の関孝和極限の考えを利用し、正131072角形を使って小数第11位まで算出した。

脚注

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  1. ^ 村松茂清著『算俎』 - 数学共楽会、2012年9月25日閲覧。
  2. ^ Πの歴史、2012年9月25日閲覧。
  3. ^ 朝日日本歴史人物事典「村松茂清」 - コトバンク、2012年9月25日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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