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穆宗 (高麗王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
穆宗 王誦
高麗
第7代国王
王朝 高麗
在位期間 997年11月29日 - 1009年3月2日
姓・諱 王誦
諡号 宣霊大王
孝思威恵克英靖恭宣譲大王
廟号 穆宗
生年 太平興国5年5月20日
980年7月5日
没年 統和27年2月3日
1009年3月2日
景宗
献哀王后
王后・王配 宣正王后
妃嬪 下記参照
子女 下記参照
陵墓 義陵
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穆宗(ぼくそう 、980年7月5日 - 1009年3月2日)は第7代高麗王(在位:997年 - 1009年)。姓は王、は誦。廟号ははじめ愍宗、のち穆宗とされた。諡号は孝思威恵克英靖恭宣譲大王(宣霊大王)。第5代国王景宗の長男であり、母は献哀王后皇甫氏。景宗死去の時は1歳であった。

即位後は生母の献哀王太后が政治の実権を握り、彼女の寵愛を受けた親族の金致陽が政権の中心にいた。2人は王位継承の可能性のある大良院君(顕宗)を地方寺院に追い払い、さらに穆宗の廃位をもくろんだ。危険を察した穆宗は西北面巡検使の康兆を呼び寄せ、これを阻止しようとした。しかし、康兆は金致陽一派を倒した後、大良院君を擁立し、穆宗は廃位、殺害された[1]契丹との関係は下表を参照。

家族

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  • 父:景宗
  • 母:献哀王后
  • 伯父:成宗
  • 叔母:献貞王后
    • 従弟:顕宗
  • 王妃:宣正王后 劉氏(太祖の子・寿命太子の息子 弘徳院君王圭と成宗の王后 文徳王后劉氏の娘。従兄弟に関係に当たる。)
  • 後宮:邀石宅宮人 金氏(女官出身であったが、新羅の元聖王の末裔と称した。後に流罪となる。)

両方の妃との間に子は無かった。

関係年表

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  • 963年12月 高麗、の年号を分暦
  • 983年
6月10日 統和と改元し、国号を大契丹とする。
10月24日 契丹、高麗を攻める。
  • 985年
7月1日 契丹、高麗を攻める。
  • 992年
12月 契丹、高麗を攻める。
  • 993年
1月17日 契丹、高麗と講和。
10月3日 高麗、契丹に使を遣わす。
  • 994年
2月 高麗、契丹の年号を分暦。
  • 1002年(穆宗5年6月)耽羅山大噴火[2]
  • 1005年(穆宗8年) 全州節度仕を設置
  • 1007年(穆宗10年) 耽羅で海中から瑞山が出現[3]
  • 1009年 穆宗、殺害される。
  • 1010年
8月21日 契丹、高麗を攻める。

参照

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  1. ^ 詳細は 高麗史 列伝巻一 后妃一
  2. ^ 穆宗五年六月 耽羅山開四孔 赤水湧出 五日而止 其水皆成瓦石
  3. ^ 十年 耽羅瑞山湧出海中 遣大學博士田拱之 往視之 耽羅人言 山之始出也 雲霧晦冥 地動如雷 凡七晝夜 始開霽 山高可百餘丈 周圍可四十餘里 無草木 烟氣羃 其上望之 如石硫黄 人恐懼不敢近 拱之躬至山下 圖其形以進

登場作品

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