霊王 (楚)
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霊王 熊虔 | |
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楚 | |
第10代王 | |
王朝 | 楚 |
在位期間 | 前541年 - 前529年 |
都城 | 郢 |
姓・諱 | 熊虔 |
諡号 | 霊王 |
生年 | 不詳 |
没年 |
霊王12年5月26日[1] (前529年5月4日) |
父 | 共王 |
后妃 |
豊氏 晋女 |
霊王(れいおう)は、中国の春秋時代の楚の王。姓は羋、氏は熊。諱は囲、のちに虔と改名した。共王の次男。
生涯
[編集]父共王の死後、王位は長兄の康王が継いでいた。康王の死後はその息子の郟敖が継いでおり、熊囲はその令尹となって補佐していたが、郟敖4年(紀元前541年)に郟敖を殺害して自ら王として即位した。主に勢力拡大に従事し、諸侯と会盟して呉を討った。
霊王8年(紀元前533年)に陳を、霊王10年(紀元前531年)に蔡を討った。その後も徐、次いでまた呉を討つなどして楚の勢力を拡大した。しかし、連年の戦役は臣民に多大な負担を強いた。このため臣民の心は霊王のもとから離れ、公子の熊比・熊黒肱(子皙)・熊弃疾ら(3人とも霊王の弟)は反対派を結成し、霊王12年(紀元前529年)に霊王が軍を率いて都の郢を留守にするとクーデターを決行。留守を預かっていた霊王の太子である熊禄を殺害した。このクーデターを知って霊王の楚軍は一気に崩壊し、霊王は山中をさまよいながら死んだ。
死後、王位はクーデターで中心的な役割を果たした熊比こと訾敖が継いだが、弟の熊弃疾が再度クーデターを起こして兄たちを排除し、彼が平王として即位した。
家庭
[編集]父親:
- 共王(熊審、第7代楚王)
兄弟:
子:
- 太子禄(霊王太子)
- 公子罷敵
脚注
[編集]- ^ 『春秋左氏伝』昭公十三年五月癸亥条による。
参考文献
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