藤原成光
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 天永2年(1111年) |
死没 | 治承4年7月18日(1180年8月10日) |
官位 | 正四位下、豊前守 |
主君 | 崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇 |
氏族 | 藤原式家 |
父母 | 父:藤原敦光、母:大中臣輔清の娘 |
兄弟 | 有光、長光、成光、邦光、淳仁、喜覚、光縁、明覚、顕豪、光猷、頼円、号姫子、女子 |
妻 |
藤原茂明の娘、藤原能兼娘 安倍広賢の娘 |
子 | 季光、康成、能成、敦季、親成、成永、成宗 |
藤原 成光(ふじわら の なりみつ)は、平安時代後期の貴族・儒学者。藤原式家、文章博士・藤原敦光の四男または五男。官位は正四位下・豊前守。
経歴
[編集]若くして大学寮に入り、保延3年(1137年)6月に父・敦光が成光の学問料の給付を願い出ている。当時の成光は正六位上の位階にあった。その後、文章得業生となり、康治元年(1142年)6月に蔵人に補任された[1]。久寿2年(1155年)10月に式部権少輔に任官する[2]。久寿3年(1156年)正月、正五位下に叙せられ[3]、文章博士、式部大輔、豊前守を歴任。文章博士在任時には仁安の元号を勘申して採用された。
嘉応2年(1170年)6月、太政大臣・藤原忠雅が上表する際には、上表文を起草している[4]。治承2年(1178年)閏6月、九条兼実と文談する。兼実はこの時に成光を「文道の故実を知り詩心を得たる人」と評した[5]。治承4年(1180年)7月18日に70歳で卒去[6]。
系譜
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年