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浦城城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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浦城城
宮崎県
別名 浦尻城
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 河野越智氏?
築城年 不明(16世紀代?)
主な城主 松田義清?
廃城年 不明
遺構 曲輪堀切
指定文化財 史跡等未指定[1]
埋蔵文化財
包蔵地番号
延岡市No.1009[1]
位置 北緯32度38分22.9秒 東経131度45分36.8秒 / 北緯32.639694度 東経131.760222度 / 32.639694; 131.760222座標: 北緯32度38分22.9秒 東経131度45分36.8秒 / 北緯32.639694度 東経131.760222度 / 32.639694; 131.760222
地図
浦城城の位置(宮崎県内)
浦城城
浦城城
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浦城城(うらしろじょう)、または浦尻城(うらしりじょう)は、宮崎県延岡市浦城町字市場・田ノ浦にあった日本の城

歴史

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日向灘に面した南北浦海岸の一部である浦尻湾(浦城湾)の奥にある、南北1500メートル×東西500メートルの「おや鼻」と呼ばれる半島)の標高56メートルの丘陵部を城域とする。浦尻湾の入口部分には、南北方向に長い砂嘴が発達しており、日向灘沖合からはこれに遮られて城の位置する「おや鼻」はもちろん、湾そのものもまったくその存在を知ることができない立地である[2]

天正6年(1578年)、豊後大友氏による侵攻による滅亡時の城主は松田義清といわれる。

築城者およびその年代の詳細は不明であるが、室町時代以来、豊後瀬戸内海方面とを結ぶ水軍の根拠地であったという。北岸の「矢来場」という地点には、河野越智氏の建立による天文17年(1548年)銘の六地蔵幢(石塔)があり、河野氏系越智水軍の支城であったと考えられている[2]

概況

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堀切によって南の尾根と断ち切られた城域は、東西150メートル、南北500メートルに広がっている。湾からのぞめる北部斜面は樹木が多く比較的開けてはいるものの、全域を雑木と藪に覆われており、調査はきわめて困難とされる。調査が進展すれば城域が大きく広がる可能性もあるという[2]

周囲には「船隠し」「甫場」「すか千軒」「おおや千軒」「のろし山」などの城郭関連の通称地名がのこっており、頂上は見張り台となっている。地元の伝承では、川石を敷き詰めた犬走り帯曲輪)があり、緊急時には馬に乗った伝令が駆けたという。「甫場」には寺院跡がある。

脚注

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  1. ^ a b 延岡市教育委員会 1996 p.15
  2. ^ a b c 宮崎県教育委員会 1999 pp.23-24

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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