アントニオ・カブリーニ
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名前 | ||||||
愛称 | Bell Antonio | |||||
ラテン文字 | Antonio CABRINI | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イタリア | |||||
生年月日 | 1957年10月8日(67歳) | |||||
出身地 | クレモナ | |||||
身長 | 178cm | |||||
体重 | 72kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF(LSB) | |||||
利き足 | 左足 | |||||
ユース | ||||||
クレモネーゼ | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1973-1975 | クレモネーゼ | 29 | (2) | |||
1975-1976 | アタランタ | 35 | (1) | |||
1976-1989 | ユヴェントス | 297 | (33) | |||
1989-1991 | ボローニャ | 55 | (2) | |||
代表歴 | ||||||
1978-1987[1] | イタリア | 73 | (9) | |||
監督歴 | ||||||
2000-2001 | アレッツォ | |||||
2001 | クロトーネ | |||||
2004-2005 | ピサ | |||||
2005-2006 | ノヴァーラ | |||||
2012-2017 | サッカーイタリア女子代表 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
アントニオ・カブリーニ(Antonio Cabrini、1957年10月8日 - )は、イタリア・クレモナ出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはDF(左サイドバック)。イタリアでは、初めての現代型サイドバックと考えられている[2]。ヨーロッパ3大カップ、ワールドカップ、インターコンチネンタルカップを全て制した初めての選手であった[2]。
経歴
[編集]200年以上続く、大きな農場を営む富豪の家に生まれた[2][3]。1973年に地元のクラブチームであるクレモネーゼでキャリアをスタートさせ、僅か16歳でセリエCの舞台にデビューした[2]。2シーズン目にはレギュラーに定着した[2]。1975年からはアタランタとユヴェントスが共同で保有する形で、アタランタでプレーした[2]。
ユヴェントスがチームに加えることを決断し、1977年の2月13日に移籍[2]。そのシーズンはリーグ戦9試合で1得点、リーグ優勝とUEFAカップで優勝を果たした[2]。ユヴェントスではガエターノ・シレア、ディノ・ゾフらと強固なDF陣を形成した[2]。
ユヴェントスに在籍した13シーズンで、1985年のUEFAチャンピオンズカップ、インターコンチネンタルカップに優勝。さらに、6回のスクデット、2回のコッパ・イタリア、1回のUEFAカップ、UEFAカップウィナーズカップと多くのタイトルを獲得した。1980-81シーズンは、40試合で11得点を決めるなど、キャリアで最高のシーズンを送った[2]。1986-87シーズンに膝を負傷、1987年に手術をして以降はやや衰えも見られたが、シレアの不在時や引退後はキャプテンも務め、1989年まで在籍した[2]、通算では440試合出場52得点という記録を残した[2]。
その後、クラブでは1989年にボローニャに移籍。1991年に選手キャリアに幕を降ろした。 引退後は指導者の道へ進んだ。2012年からは、女子サッカーのイタリア代表のコーチを務めていた。
代表経歴
[編集]イタリア代表としては1978年のFIFAワールドカップ・アルゼンチン大会、6月2日のフランス戦で代表デビューを果たした[2]。そのまま左サイドバックのレギュラーに定着した。
1982年のFIFAワールドカップ・スペイン大会では、アルゼンチン戦で決勝ゴールを決めた[4]。決勝では、日頃PKキッカーを務めるアントニオーニの不在により、前半24分に獲得したPKを蹴るも失敗したが[3][2]、優れたパフォーマンスを見せ、イタリアは勝利し優勝を果たした[2]。
1980年の欧州選手権では、3位に入賞した[2]。1986年のFIFAワールドカップ・メキシコ大会に出場したが、1987年に怪我で代表引退を表明した[2]。国際Aマッチ73試合出場9得点を記録した。
人物
[編集]- ジャチント・ファッケッティの系譜を受け継いだ左サイドバックだが、ファッケッティを攻撃的にした現代型のサイドバック[2]。フィジカルが強く、高い守備能力だけでなく、攻撃参加も持ち味で、強烈なシュート力を持ち、FKやPKのスペシャリストでもあった[2]。ユヴェントスの右サイドからのFKはミッシェル・プラティニではなく、ガブリー二が担当する、ことが多かった[3]。
- 1982年のFIFAワールドカップ・スペイン大会頃までは長めの髪であったが、友人であるチェーザレ・プランデッリと共に、髪の毛を切りに行ってところ、プランデッリとそっくりな髪形にされてしまい、以降は長めの髪でなくなったという[2]。
指導者歴
[編集]- ACアレッツォ 2000-2001
- FCクロトーネ 2001
- ピサ・カルチョ2004-2005
- ノヴァーラ・カルチョ 2005-2006
獲得タイトル
[編集]ユヴェントス
[編集]- セリエA 6回(1976-1977、19771978、1980-1981、1981-1982、1983-1984、1985-1986)
- コッパ・イタリア 2回(1978、1983)
- UEFAチャンピオンズリーグ 1回(1984-1985)
- UEFAカップ 1回(1976-1977)
- UEFAカップウィナーズカップ 1回(1983-1984)
- UEFAスーパーカップ 1回(1984)
- インターコンチネンタルカップ 1回(1985)
イタリア代表
[編集]- FIFAワールドカップ 1回(1982、優勝)
出典
[編集]- ^ “Antonio Cabrini - International Appearances” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t “Cabrini, la favola del 'Bell'Antonio' campione del Mondo nel 1982”. GOAL (2022年10月8日). 2023年8月5日閲覧。
- ^ a b c トヨタカップ 1985 公式パンフレット ユベントス VS アルゼンチノス P.25
- ^ “Cabrini National team”. www.transfermarket. 25 January 2021閲覧。
外部リンク
[編集]- Cabrini: What I most felt was relief - FIFA.com