渡嘉敷通寛
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(渡嘉敷通寬から転送)
渡嘉敷 親雲上 通寛(とかしき ウェーカタ つうかん、乾隆59年[1](1794年) - 道光29年[2](1849年))は琉球国第二尚氏王統の人。医師で本草学者。首里出身。幼名は眞三郎(まさんらー)。唐名は呂 継続(りょ けいぞく)。
呂氏諸見里通治と真蒲戸(まかまと[3])の長男として首里大中で生まれた。14歳で元服し、22歳で父の跡を継ぎ、親雲上(ぺーちん)位に叙せられた。1817年(嘉慶22年)に23歳で清へ渡り、北京太医院で中国の食医学の権威である張垣に師事した[4]。帰国後、下庫理(しちゃぐい)御番医者となったのを皮切りに1824年(道光4年)30歳で琉球王府の御医者相附となり、再び北京へ留学し(留学中に侍医に任ぜられる)、張水清に精神病の一種・積瘋の治療法を修得し王家の治療に尽くした[5]。
1838年、渡嘉敷間切総地頭となり、諸見里姓より渡嘉敷姓へ変わる。41年、申口座に昇進[4]。
渡嘉敷通寛が1832年に著した『御膳本草』は琉球食療法の重要な指導書である[6]。この他現存していないが著書に『毒蛇の療法・養生の仕養』、『麻疹懐方』、『納殿御薬種製法記』や、『<全疱且疱療>和解』があった[4]。