服部伸
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(浪花亭駒子から転送)
服部 伸(はっとり しん、本名:服部 辰次郎(はっとり たつじろう)、1880年6月2日 - 1974年12月4日)は、講談師である。
1955年の服部伸 | |
本名 | 服部 辰次郎 |
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生年月日 | 1880年6月2日 |
没年月日 | 1974年12月4日(94歳没) |
出身地 | 東京浅草 |
師匠 | 浪花亭駒吉 |
名跡 | 1.浪花亭小吉(1892年 - 1903年) 2.一心亭辰雄(1903年 - 1936年) 3.服部伸(1936年 - 1974年) |
活動内容 | 浪花節(1892年 - 1936年) 講談師(1936年 - 1974年) |
人物
[編集]初めは浪曲師として啖呵で人気を博したが、後に節の声が出なくなり、会話に優れた芸(浪曲でいう「啖呵」)を生かして講談師に転じた。90歳を過ぎても高座にあがり続けた。その実直な人柄で愛され、浪曲史に多くの貴重な証言を残している。浪曲時代の得意演目には「は組小町」「関の弥太ッぺ」「一本刀土俵入」「大石東下り」がある。
略歴
[編集]- 1880年6月 - 東京浅草に生れる。父は俥屋を営んでいた。
- 7、8歳の時に親に連れられて初めて浅草北新町の「長玉亭」という浪曲の寄席に行く。
- 1892年 - 12歳で浪花節語りの浪花亭駒吉に入門し浪曲師となり、浪花亭小吉を名乗る。
- 1893年 - 「長玉亭」で初舞台。若い頃にはまだヒラキで浪花節を語っていたこともあるという[1]。
- 18歳の時、浪花亭駒子で真打昇進。
- 1903年5月 - 関東浪曲界を二つに割った「浅草組」「神田組」の争いの絡みから、一心亭辰雄(いっしんてい たつお)と改名する。「自由演芸会」を伊藤痴遊らと発足。浅草・新恵比寿亭を本拠とする。「節の奈良丸、啖呵の辰雄、声のいいのが雲右衛門」、と並び称せらる大看板となる。
- 1936年 - 作家の長谷川伸から一字名を貰い、服部伸の名で講談へ転向。
- 1961年
- 1973年 - 講談協会が二団体に分裂し高齢のため引退。
- 1974年12月14日 - 死去。墓所は台東区潮江院。
脚注
[編集]- ^ 「浪花節繁昌記」大西信行
参考資料
[編集]- 三好貢『浪花節一代』朋文社、1957。JP:58000659。半分は服部伸の浪曲師時代の芸談である。