浅井栄凞
あさい えいき 浅井 栄凞 | |
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生誕 |
安政6年10月28日(1859年11月22日) 肥後国熊本安巳橋通2丁目 |
死没 |
1931年(昭和6年)9月30日 熊本県熊本市黒髪町小磧橋畔 |
死因 | 脳溢血 |
住居 | 交翠園、知足庵 |
国籍 | 大日本帝国 |
別名 | 交翠園主人 |
教育 | 国友昌、箕作秋坪、中村正直 |
出身校 | 熊本県立熊本中学校、同人社 |
代表作 | 『沙漠の花』 |
影響を受けたもの | 宗般玄芳 |
宗教 | 仏教(臨済宗) |
配偶者 | 浅井政 |
子供 | 浅井英名、英資 |
親 | 浅井鼎泉 |
親戚 | 会田由義(義兄) |
浅井 栄凞[1](あさい えいき[1]、安政6年10月28日(1859年11月22日) - 1931年(昭和6年)9月30日)は明治時代の日本の教育者。福井県福井中学校助教諭、済々黌教師、熊本英語学会主幹、文部省総務局詰、第五高等学校学寮掛、細川家家扶。五高時代に夏目漱石と同僚だった。
経歴
[編集]学生時代
[編集]安政6年(1859年)10月28日肥後国熊本安巳橋通2丁目に浅井鼎泉の長男として生まれた[1]。明治4年(1871年)3月古照軒国友昌に入門して漢学を学んだ[1]。1875年(明治8年)熊本県立熊本中学校に入学し、普通学を学んだ[1]。
1878年(明治11年)4月上京して箕作秋坪に入門し、英語を学んだ[1]。1879年(明治12年)6月中村正直の同人社に転学し、1881年(明治14年)12月普通英語学科を卒業した[1]。
教育活動
[編集]1882年(明治15年)7月7日福井県福井中学校一等助教諭となり、英語・地理・歴史を教えた[1]。9月12日福井県福井小学師範学校一等助教諭兼福井中学校1等助教諭となったが、1883年(明治16年)5月2日肺病により退職した[1]。
帰郷して泰勝寺邸内で英語を教えると、英語教育の需要の高まりから生徒が殺到し、立田口久本寺に移って英語・漢文・数学を教えた[2]。1883年(明治16年)9月父が設立に関わった私立済々黌[1]で普通学教師となった[3]。1886年(明治19年)8月辞職し、9月私立熊本英語学会主幹を務めた[4]。
1887年(明治20年)12月27日東京で文部省総務局に出仕した[4]。1889年(明治22年)10月3日臨時帝国議会事務局雇となり、26日文部省を辞職した[4]。1890年(明治23年)8月25日貴族院雇となり、9月11日編纂課に勤務した[4]。
1891年(明治24年)7月20日退職し、熊本に帰郷した[4]。持病の胸部疾患が悪化して死を覚悟し、見性禅寺宗般玄芳に笑って死ねる方法を相談すると、白隠禅師『夜船閑話』を渡され、中に記されていた数息観を実践したところ、快復に向かったため、禅に傾倒するようになった[5]。
1895年(明治28年)6月28日第五高等学校英語科授業を嘱託され、学寮掛を兼務したが[4]、授業を受け持っていた記録はない[6]。8月着任した菅虎雄を伴って見性禅寺に参禅し[7]、1896年(明治29年)4月着任した夏目漱石も虎雄の勧めで同寺で打坐を試みた[8]。1897年(明治30年)1月20日学寮係主任となったが[4]、職員と衝突し[9]、3月31日座骨神経痛を理由に退職した[4]。
1898年(明治31年)6月末頃、漱石の妻鏡子が自殺未遂を起こすと[10]、済々黌時代に生徒だった『九州日々新聞』社長山田珠一の下に急行し、記事に取り上げないよう根回しした[2]。
実業の試み
[編集]退職後は父鼎泉の第九銀行無限責任社員・監査役となった[4]。葦北郡水俣村の親族の子弟5,6名を生徒に取り、1899年(明治32年)北坪井に家を借りて宏済書院を開き、友人尾関義山の援助を受け、五高時代の同僚黒本稼堂も出講した[9]。
父の死後、1900年(明治33年)第九銀行が倒産すると、債務弁済のため私財を失い、困窮した[4]。安政橋通町に薪炭商を営むも、経営に行き詰まった[4]。
1906年(明治39年)冬頃、父の甥の京城日報社社長阿部充家の斡旋で京城に渡り[4]、太平町の朝鮮家屋で朝鮮人用質屋と郵便所を営んだところ、軌道に乗り[11]、1909年(明治42年)4月家族を呼び寄せた[4]。10月6日には『満韓ところどころ』の旅行中の夏目漱石の訪問を受けた[11]。
細川家時代
[編集]1909年(明治42年)10,11月頃帰国し[11]、細川護成の招きで細川家家扶となり、横手村北岡の家政所(細川家霊廟)に住み込んだ[12]。1911年(明治44年)頃、胃腸を患い静養した[13]。
1912年(大正元年)秋、小石川区老松町の東京家政所に移った[12]。細川護立の代には赤坂区新坂町別邸で家政監督を務め[12]、箱根山登山にも同行したほか[14]、一条家と京都大徳寺・妙心寺・円福寺にも参禅した[6]。
1930年(昭和5年)退職して帰郷し、黒髪町小磧橋畔に知足庵を営んだが、1931年(昭和6年)9月30日脳溢血で死去した[12]。法名は一枝庵霊山自哲居士[12]。
訳書
[編集]- 『孝女美談 沙漠の芲』 - 1887年(明治20年)刊。坂本筒蔵共訳。勿陳(リストウ)女史(ソフィー・コタン[15])著『ヱリザベス伝記』Élisabeth ou les Exilés de Sibérie英訳本の重訳[16]。
人物
[編集]無口で地味な人物だった[6]。生来病弱なため、顔色が「うらなりの唐茄子」のように青黄色だった[14]。漱石著『坊つちやん』ではうらなりに顔色が似ている人物として「浅井のおやぢ」が名前のみ登場するほか、『虞美人草』にも浅井姓の人物が登場し、漱石の潜在意識に栄凞の存在があったとも考えられる[17]。
家では正座を崩さず、酒・煙草も飲まず[15]、寝る前には読経を欠かさないなど、禅僧のような生活を送った[6]。居士号は自哲[8]。漱石からは吟行を習ったほか[6]、古市宗安から肥後古流茶道を学び[14]、茶会を開催する時には自ら魚河岸で魚を購入し、襷掛けで料理した[6]。シェイクスピア作品を多数所蔵していた[15]。
書斎に父譲りの王治本筆「環翠舎」の額を掲げていたところ、五高時代の同僚黒本稼堂がこれを気に入らず、旧藩儒片岡朱陵筆「交翠園」の額を渡されたため、これを掲げて交翠園主人と号した[18]。
家族
[編集]- 父:浅井鼎泉 - 熊本藩重臣、細川家家扶[2]。
- 母:寺井氏[1]
- 弟:中村友雄 - 宇留毛で牧場を経営した[2]。
- 妹:真寿(まじゅ) - 熊本県立熊本高等女学校初代校長会田由義妻[19]。
- 妻:政(まさ)[19]
- 長男:栄名(よしな)[12]
- 三男:浅井栄資(よしすけ) - 東京商船大学長、日本海技協会長[17]。
- 孫:浅井栄暢(よしのぶ) - 二本木で開業医を営む[14]。
- 女中:とめ – 夏目家にも出仕した[19]。
- 女中:とよ – とめの妹。新屋敷裏で駄菓子屋を営んだ[19]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 原武 1981, p. 2.
- ^ a b c d 原武 1981, p. 8.
- ^ 佐々友房「済々黌歴史」『創立三十周年記念 多士』鹿島浩、1912年6月。NDLJP:812727/59。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 原武 1981, p. 3.
- ^ 原武 1981, pp. 5–6.
- ^ a b c d e f 原武 1981, p. 19.
- ^ 原武 1981, p. 5.
- ^ a b 原武 1981, p. 6.
- ^ a b 黒本 1932, p. 11.
- ^ 原武 1981, p. 1.
- ^ a b c 原武 1981, p. 15.
- ^ a b c d e f 原武 1981, p. 4.
- ^ 原武 1981, p. 17.
- ^ a b c d 井上 2003.
- ^ a b c 原武 1981, p. 20.
- ^ NDLJP:896895
- ^ a b 原武 1981, p. 21.
- ^ 黒本 1932, pp. 11–12.
- ^ a b c d 原武 1981, p. 10.
参考文献
[編集]- 黒本稼堂『肥後異人談』 下之巻、稼堂叢書刊行会〈稼堂叢書〉、1932年10月。肥後異人談 ; 島津兩侯遺事 ; 大村兵部大輔逸話 ; 野分廼朝 - Google ブックス。
- 原武哲「夏目漱石と浅井栄凞 ――鏡子入水事件に関わった禅の人――」『近代文学論集』第7号、日本近代文学会九州支部「近代文学論集」編集委員会、1981年11月。
- 井上智重 (2003年11月29日). “近代肥後異風者伝 (32) 浅井栄熈”. 熊本日日新聞. オリジナルの2003年12月23日時点におけるアーカイブ。