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洪範九疇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
洪範から転送)

洪範九疇(こうはんきゅうちゅう)は、中国古代の伝説上、天帝から授けられたという天地の大法。単に九疇(きゅうちゅう)あるいは九章(きゅうしょう)、九法(きゅうほう)などともいわれる。洪は「大いなる」、範は「法(のり)」、疇はで区切られた田畑の領域から「類(たぐい)」の意味である。その内容は『尚書』洪範篇において箕子武王へ語るかたちで載せられており、君主が水・火・木・金・土の五行にもとづいて行動し、天下を治めることを説いている。儒家経典の中で五行説の中心となるものであり、陰陽説にもとづいた『』の八卦と表裏の関係とされた。このことから西洋哲学におけるカテゴリの訳語である「範疇」の語源となった。「洪範」とは大きな教えという意味である[1]

九疇の内容

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九疇は五行・五事・八政・五紀・皇極・三徳・稽疑・庶徴・五福六極とされ、その内容は以下のようである。

  1. 五行 - 水・火・木・金・土
  2. 五事 - 貌・言・視・聴・思
  3. 八政 - 食・貨・祀・司空・司徒・司寇・賓・師
  4. 五紀 - 歳・月・日・星辰・暦数
  5. 皇極
  6. 三徳 - 正直・剛克・柔克
  7. 稽疑 - 卜筮
  8. 庶徴 - 休徴・咎徴
  9. 五福・六極 - 寿・富・康寧・攸好德・考終命、凶短折・疾・憂・貧・悪・弱

朝鮮と洪範九疇

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李氏朝鮮言論人である張志淵は、洪範九疇について以下のように述べている[1]

檀君之季,殷太師箕子避周以來,以洪範九疇之道,教化東方。

檀君時代の末に、殷の王族箕子が周を避けて来て以来、洪範九疇之道をもって東方を教化した[1] — 張志淵、朝鮮儒教淵源
洪範者即易象之原理,而儒教之宗祖也,自古聖帝哲王修身齊家治國天下之大經大法,皆具於洪範一書。

洪範とは、即ち易象の原理で、儒教の大本である。古より聖帝・哲王の唱える修身齊家治国天下の大経・大法は、みな洪範の一書の中に備わっている[1] — 張志淵、朝鮮儒教淵源

箕子とは、中国古代の殷周革命が起きたときの、殷王朝の王族であり、檀君朝鮮末期に、周王朝を避けて朝鮮半島にやってきた。そして、「洪範九疇」によって朝鮮人教化した[1]大韓民国の国旗である太極旗の図案は『』の原理で描かれている。洪範九疇は『』の原理、儒教の根本の教義であり、箕子はそれを殷王朝を滅ぼし、周王朝を建国した周武王に伝えるとともに、朝鮮にももたらし、「八條之教」によって朝鮮人を教化したことは、『史記』に記されているが、張志淵はそれを「洪範九疇」とみている[1]

其八條雖遺缼失傅,然孔子賛易曰,箕子之明夷,明夷者其道明於東方也,然則朝鮮雖謂之儒教宗祖之邦可矣。
八條の教えは失われてしまったが、孔子は易に注釈をつけて「箕子の明夷」と述べた。明夷とはその道を東方の朝鮮で明らかにしたという意味で、したがって朝鮮は儒教の宗祖の国と言ってもよいであろう
[1] — 張志淵、朝鮮儒教淵源

』明夷の解釈にことよせて、朝鮮が「儒教宗祖之邦」といってもよいとまで断言してはばからない。そして、箕子が「洪範九疇」を朝鮮にもたらしたことから、孔子が生まれる以前に、儒教の根本の教義が朝鮮に伝わっていたことになる[1]

是故論語孔子乘桴浮海之志,有欲居九夷之語,盖謂吾東是儒教舊邦,故夫子欲如箕子之布教行道而有是言也。
したがって論語にあるように、孔子は海に浮かべたいかだに乗って出かけてしまおうと述べた。また九夷に住むことを欲するとも言った。出かける先の九夷とは朝鮮、儒教の国のことである。孔子が生まれる以前から箕子によって伝えられた儒教の教えの根本が朝鮮にあるから、孔子も行きたがったのだ
[1] — 張志淵、朝鮮儒教淵源

論語』にみえる中国で「」がおこなわれないことに対する孔子の嘆きの言葉も、箕子が朝鮮で成功したことにあやかろうとして、海外に行ってしまいたい、九夷東夷)にでもおろうかと、述べたものとする解釈は、李氏朝鮮では通説だった。ただし、残念であるが、孔子の朝鮮への東来は実現することはなく、これについて張志淵は以下のように述べている[1]

向使孔子果然浮海而志,如箕子之斷行傳教化于吾東,安知吾東一域爲孔教根據之邦,而廣吾東於天下也耶,惜乎,其拘於時勢而終不果行也。

仮にもし孔子が本当にいかだに乗って東方にやってきて、箕子が朝鮮を教化したのと同じようにしていたら、わが朝鮮の地域は、孔子の教えである儒教の根拠の国になっただろう。残念ながら、それは実現しなかった[1] — 張志淵、朝鮮儒教淵源

洛書と九疇

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『易経』繋辞上伝に八卦の由来に関する記述に「天、象を垂れ、吉凶を見(あらわ)す。聖人これに象る。河は図を出し、洛は書を出す。聖人これに則る」とある。ここで黄河から現れた図(河図)や洛水から現れた書(洛書)がいつ現れたかは記されていないが、『漢書』五行志が劉歆の説を挙げ、伏羲の時に河図が現れて、これに則って八卦を作り、の治水の時に現れた洛書が洪範九疇であったとした。さらに『尚書』の偽孔伝では夏の禹の時、洛水から神亀が文字を背負って現れたが、そこに九に至る数字があり、禹がそれにもとづいて作ったのが九疇であったとされた。

宋代になると河図洛書は陰陽と数を黒白の圏点で描いた図象として解されるようになり、北宋の劉牧や李覯は、1から10までの五行生成の数を各方位に配した十数図を「洛書」としたが、南宋の朱熹・蔡元定は十数図を八卦の由来となった「河図」とするとともに1から9までの数を中央と八方に縦・横・斜めの総和が15になるように配した九数図を「洛書」とした。やがて朱子学が官学として権威をもつようになると、十数河図・九数洛書の説が広く行われるようになった。

  • 五行生数 - 水1・火2・木3・金4・土5
  • 五行成数 - 水6・火7・木8・金9・土10

脚注

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関連項目

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