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河津憲一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
河津宏紀から転送)
河津 憲一
基本情報
出身地 日本の旗 日本 長崎県長崎市
生年月日 (1933-12-04) 1933年12月4日(90歳)
身長
体重
180 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1953年
初出場 1955年
最終出場 1963年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

河津 憲一(かわづ けんいち、1933年12月4日 - )は長崎県長崎市[1]出身の元プロ野球選手1958年から1961年までは、河津 宏紀(-ひろき)[1]

来歴・人物

[編集]

長崎商業では1952年、エース太田正男を擁し三塁手として春の選抜に出場[1]。準々決勝に進むが八尾高木村保に抑えられ敗退[2]。同年夏の選手権では準決勝に進出するが、またも八尾高の木村に完封を喫する[3]

1953年に、大阪タイガースに入団[1]1956年には一軍に定着し、二塁手、三塁手として28試合に先発出場を果たす。しかし当時のタイガースの内野手の布陣は、三宅秀史吉田義男白坂長栄という名手ぞろいだったため、レギュラーを獲得することはできなかった。

1958年オフに、東映フライヤーズに移籍[1]。ここでも控え内野手にとどまるが、1961年には自己最高の52試合に先発する。しかし同年限りで自由契約となり、南海ホークスに移籍[1]1963年現役引退した。

引退後はエース株式会社に入社し、後に常務を務めた[1]

私生活では宝塚歌劇団卒業生歌園いすゞと結婚。娘(双子)に宝塚歌劇団卒業生(元専科娘役)の鈴奈沙也と同卒業生(元月組娘役)の鈴奈美央がいる。

東映時代の1961年8月16日から9月12日まで22試合連続三振を記録している[1]

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1955 阪神 6 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1956 69 115 103 11 20 3 2 2 33 11 1 1 5 0 6 0 1 17 0 .194 .245 .320 .566
1957 28 36 33 3 5 0 0 0 5 1 0 0 0 0 2 0 1 11 0 .152 .222 .152 .374
1958 79 141 123 13 30 5 2 3 48 10 1 2 2 2 14 1 0 34 5 .244 .321 .390 .711
1959 東映 59 121 107 18 21 6 0 2 33 11 5 0 6 0 7 0 1 26 2 .196 .252 .308 .561
1960 34 85 78 7 15 2 1 1 22 10 2 3 0 1 4 0 2 13 3 .192 .250 .282 .532
1961 78 215 197 19 48 10 3 5 79 19 6 0 2 2 12 0 2 53 3 .244 .294 .401 .695
1962 南海 31 65 61 7 15 1 0 1 19 2 2 1 0 0 4 0 0 13 0 .246 .292 .311 .604
1963 37 50 43 4 7 0 0 0 7 2 0 0 0 1 5 0 1 15 1 .163 .265 .163 .428
通算:9年 421 830 747 82 161 27 8 14 246 66 17 7 15 6 54 1 8 183 14 .216 .276 .329 .605

背番号

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  • 34(1953年 - 1956年)
  • 9(1957年)
  • 24(1958年)
  • 4(1959年 - 1961年)
  • 29(1962年 - 1963年)

登録名

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  • 河津 憲一 (かわづ けんいち、1953年 - 1957年、1962年 - 1963年)
  • 河津 宏紀 (かわづ ひろき、1958年 - 1961年)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、172ページ
  2. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  3. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年

関連項目

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外部リンク

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