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汪瑞闓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
汪瑞ガイから転送)
汪瑞闓
『中華民国維新政府概史』(1940年)
プロフィール
出生: 1875年10月7日
光緒元年9月初9日)[1]
死去: 1941年民国30年)1月24日
中華民国浙江省杭州市
出身地: 清の旗 安徽省泗州盱眙県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 汪瑞闓
簡体字 汪瑞闿
拼音 Wāng Ruìkǎi
ラテン字 Wang Jui-k'ai
和名表記: おう ずいがい
発音転記: ワン ルイカイ
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汪 瑞闓(おう ずいがい)は、中華民国の政治家。中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)で浙江省の長をつとめた。

事績

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1912年民国元年)12月16日、江西省の初代民政長に就任した[2]第二革命(二次革命)前後に事実上辞職している(正式な罷免は1914年4月)[3]1916年(民国5年)2月10日、参政院参政に任命された[2][4]1921年(民国10年)8月18日、紙菸捐務駐滬総弁に任命され、1924年(民国13年)11月21日まで在任した[2]

中華民国維新政府が成立した後の1938年(民国27年)5月、浙江省政府が正式に組織され、汪瑞闓が省長に任命された。翌1939年(民国28年)1月3日、汪瑞闓は刺客の銃撃に遭い負傷している[5]汪兆銘(汪精衛)が南京国民政府を樹立した後も、汪瑞闓は浙江省長にとどまっている。1940年(民国29年)10月、浙江省政府が省主席制に改組されても、そのまま省政府主席に留任した。1941年(民国30年)1月24日、省政府主席在任中に杭州市で死去。享年67(満65歳)[6]

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  1. ^ 王(2012)掲載の家譜による。ただし本文中では生年を「1873年」としている。
  2. ^ a b c 中華民国政府官職資料庫「姓名:汪瑞闓」
  3. ^ 劉主編(1995)、262-263頁。
  4. ^ 劉主編(1995)、171頁。
  5. ^ 中国杭州ホームページ。
  6. ^ 劉主編(1995)、1109-1110頁。王(2012)。

参考文献

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  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 『杭州市志』「大事記」中国杭州(中共杭州市委・杭州市人民政府ホームページ)
  • 王沢強「汪瑞闓的伝奇人生」『淮海晩報』2012年4月15日。
  中華民国維新政府
先代
(創設)
浙江省長
1938年5月 - 1940年3月
次代
(南京国民政府に継続)
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(維新政府から継続)
浙江省長
1940年3月 - 10月
次代
(省政府主席に改組)
先代
(省長から改組)
浙江省政府主席
1940年10月 - 1941年1月
次代
梅思平