黒沢隆朝
黒沢 隆朝(くろさわ たかとも、1895年4月9日 - 1987年5月20日)は、秋田県鹿角郡花輪町(現・鹿角市)出身[1]の作曲家。日本の音楽教育と音楽起源の研究に努めた[1]。別名・水田詩仙(みずたしせん)、桑田つねし、秋田実、植村甫(はじめ)、西田徹、藤村俊、藤原俊。次男は黒沢真澄(ヴァイオリニスト)。
略歴
[編集]黒沢隆朝の父は市太郎、代々神職の家であった。小学校の代用教員の傍ら、秋田県師範学校を二度受験するも極度の近視のため不合格となり、1912年(明治45年)3度目の受験の際に検査表を書き直して合格した。1917年(大正6年)に秋田師範学校を卒業。1918年上京して東京音楽学校(現・東京藝術大学)甲種師範科に入学。ヴァイオリンを学び、山田耕筰、田辺尚雄に師事。また在学中から「音楽」誌などに文章を執筆した。1921年(大正10年)東京音楽学校を卒業した[1]。
卒業後は高知県師範学校義務教生を経て渋谷の猿楽小学校、常磐松小学校に勤め、三十七歳の頃退職。この頃、小学唱歌「私のうち」をはじめ、1924年~1927年(昭和2年)にかけて敬文館から自作曲集『可愛い童謡』全10集を刊行する[1]など童謡運動に参加し、「金魚」「もぐらもち」「めだかとかえる」などの童謡を作曲した。1924年(大正13年)朝鮮に渡り、当時朝鮮の王公族だった李徳恵姫(徳恵翁主)が作謡した「びら」「雨」「蜂」「ねずみ」の4曲の作曲を行い、同年9月3日に朝鮮京城の日の出小学校において御前演奏を行っている[2]。1935年『小学校唱歌教授資料集成』などを出版し[1]、音楽教科書作りにも貢献した。
一方、変名を用いて作詞・訳詞活動も活発に行い、水田詩仙の名でフランス唱歌「サンタクロース」や、NHK「みんなのうた」で有名なドイツ民謡「山の音楽家」を[1]、桑田つねしの名でウェーバー作曲の「狩人の合唱」、藤村俊の名でドイツ民謡「秋の山楽」などの詞をそれぞれ翻案し、植村甫の名ではシューマン作曲の「楽しき農夫」に、西田徹の名では「はと時計」(曲・佐々木すぐる)の詞を書いている。
研究者としては、東洋の民族音楽の研究で業績をあげている。1941年、南方音楽文化研究所(現・日本民族音楽協会)を発足させ、朝鮮、満州、東南アジア諸国、台湾、樺太などで現地調査に従事。1939年(昭和14年)には東南アジア音楽調査[1]、1941年(昭和16年)にタイの音楽調査、1943年(昭和18年)に台湾高砂族音楽調査を行い[1]、「音階の発生よりみた音楽起源論」などを発表した。これらの研究は<黒沢学説>と呼ばれ、大きな反響を呼んだ。東洋音楽学会の理事を長く務めた。
以後、川村短期大学(現・川村学園女子大学)教授、東邦音楽大学教授、文部省教科用図書検定調査審議会委員音楽部長などを歴任した。
著書に『タイに於ける楽器の調査研究』『東南アジアの音楽』『楽器の歴史』『世界音楽史』『音楽起源論』『ベートーヴェンの生涯』『図解世界楽器大事典』『台湾高砂族の音楽』などあり、各種の音楽教科書の編著もある。作曲作品に「お星様」(黒沢隆朝作詞)、「玩具の舟」(西條八十作詞)のような童謡がある。「お星様」は、1916年(大正5年)頃、曙小学校に奉職した折の作詞・作曲である。また「曙小学校校歌」も作曲した。
1987年(昭和62年)5月20日に逝去。
参考文献
[編集]- 鹿角市『鹿角市史』[要ページ番号]1982~1997
- 池田小百合「池田小百合なっとく童謡・唱歌」