毛利貞元
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(毛利次郎から転送)
毛利 貞元(もうり さだもと、? - 延徳元年(1489年)11月)は、因幡国の国人で同国私部城城主。官職は民部大輔、通称は次郎。
経歴
[編集]貞元の一族、因幡毛利氏は永享年間より幕府奉公衆を代々務めた家柄で、貞元自身も奉公衆を務めた。
文明11年(1479年)春、応仁の乱が長期化し、山名氏の統治にほころびが生じ始める中、貞元は若桜の矢部氏ら国人衆を束ね、毛利次郎の乱と呼ばれる大規模反乱を起こした。蜂起から半年程度は優位に戦いを進めていった貞元であるが、下向した惣領の山名政豊の軍勢には敵うことができず、翌文明12年(1480年)の春頃には鎮圧された。
鎮圧後の貞元は奉公衆であったことが幸いし、助命された。加えて、厳罰に処せられた形跡もなく、3年後の文明15年(1483年)3月8日には堂々と犬追物に参加している。この後も貞元は犬追物に参加しており、同年11月14日からは矢部宗春と共にその名が見える(参考・「伊勢家書」)。
長享元年(1487年)12月30日、京都蔭涼軒主・亀泉集証の働きかけにより正式に赦免された貞元は、赤松氏支援の下、山名政実を擁立して再度、山名氏に対して反乱を起こした。しかし、戦局は貞元側に不利であったようで、延徳元年(1489年)9月5日の徳丸河原合戦で敗北、同年11月には山名豊時の軍勢に攻め込まれ私部城において自刃した。
参考文献
[編集]- 高橋正弘著『因伯の戦国城郭 通史編』
- 財団法人国府町教育文化事業団『山崎城史料調査報告書』
- 谷本進・角田誠編『因幡若桜鬼ヶ城』城郭談話会、2000年