真里谷信興
真里谷 信興(まりやつ のぶおき、永享5年(1433年)? - 永正8年6月24日(1511年7月28日))は、室町時代・戦国時代の大名。上総武田氏の武田信長の孫、武田信高(伊豆千代丸?)の子。真里谷信勝、真里谷信清の父。真里谷城城主。別名は清嗣。通称は八郎五郎。官位は三河守。法号は道鑑。
祖父の信長は元々甲斐武田氏出身だったが、享徳の乱の混乱に乗じ、古河公方に味方し、元々上杉氏の領国であった上総に勢力を築くことに成功し、上総武田氏の祖となった。後に信長は子の信高を庁南城に置き、自身は真里谷城に孫の信興と共に拠り、真里谷家を興した。信興の事蹟は祖父信長の在世時から確認されており、1462年、『飯富宮梵鐘銘』の銘文にある「三河守清嗣」に比定されている。1464年には真如寺の開基にもなったという。
祖父と父が亡くなった後は、弟の武田道信(庁南家)と共に上総の両武田と称される存在であったという(『鎌倉大草紙』)。1479年には扇谷上杉家の太田道灌が千葉自胤を擁立し、千葉孝胤など古河公方側の将を討伐するため上総に侵攻し、上総武田氏も攻撃を受けた。信興は庁南家の道信と共に抵抗したものの、道灌の攻勢の前に降参を余儀なくされたが、後に道灌の勢力が衰え、自胤が武蔵に撤退し勢力を保つことができた。
永正8年(1511年)に死去。戒名は真如寺殿照堂道鑑大居士。
なお、黒田基樹は、造海城にいた武田氏信(1474年生まれ)が信長の仮名である「八郎」を継承していることから、上総武田氏の宗家を継いだ信長の嫡孫であると推定し(信高の子であるかは不明)、清嗣(信興)は信長の庶子であったとする説を唱えている。同時に清嗣が「長南城主武田殿先祖」と書かれた過去帳の存在を指摘して、庁南家も彼の子孫の可能性が高いとしている[1]。
脚注
[編集]- ^ 黒田基樹「初期の上総武田氏をめぐって」『戦国期関東動乱と大名国衆』戎光祥出版、2021年、P162-171.(初出:『千葉史学』60号、2012年)
参考資料
[編集]- 戦国人名辞典編集委員会 『戦国人名辞典』武田道鑑の項(嶺島英寿)