李暠
武昭王 李暠 | |
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西涼 | |
初代公 | |
王朝 | 西涼 |
在位期間 | 400年 - 417年 |
都城 | 敦煌→酒泉 |
姓・諱 | 李暠 |
字 | 玄盛 |
小字 | 長生 |
諡号 |
武昭王 興聖皇帝(唐の高祖による) |
廟号 | 太祖 |
生年 | 建興39年(351年) |
没年 | 建初13年(417年)2月 |
父 | 李昶 |
陵墓 | 建世陵 |
年号 |
庚子 : 400年 - 404年 建初 : 405年 - 417年 |
李 暠[1](り こう)は、五胡十六国時代の西涼の創始者。字は玄盛、小字は長生。諡号は武昭王。本貫は隴西郡狄道県(現在の甘粛省定西市臨洮県)。
生涯
[編集]隴西李氏の系譜に連なる李昶の子として生まれた。隴西李氏は、秦の名将李信らの末裔として、河西地方の漢族社会でかなりの名族として認められており、李暠は李信の曾孫の前漢の名将李広の子の李敢の15世孫に当たったとされる。祖父の李弇は前涼の武衛将軍・天水郡太守を務めて安世亭侯に封じられ、李暠の代まで世襲された。父の李昶は李暠が生まれる前に死去したために、孤児となった彼は若くして学問を好み、経史に通ずる一方、武芸にも堪能で、孫呉の兵法に習熟した。沈着で大らかな性格であったため、漢人豪族らの信望を集めた。
龍飛2年(397年)、後涼の建康郡太守段業が後涼から自立して涼王を称し、後に北涼と呼称される独立政権を樹立した。翌神璽2年(398年)4月、敦煌を支配した段業は敦煌郡太守の孟敏を沙州刺史に任命、同時に漢人豪族の支持の厚い李暠をその配下の效穀県令に任じた。間もなく孟敏が病死したために、漢人豪族らの推挙を受けて李暠が敦煌郡太守となった。
天璽2年(400年)11月、北涼の晋昌郡太守唐瑶が北涼から離反、李暠を大将軍・涼公・秦涼二州牧・護羌校尉に推戴したことがきっかけとなり、西涼が成立した。
即位後は北涼の沮渠蒙遜の侵攻を撥ねつける一方、農耕・養蚕や西域との貿易を奨励して安定した国家を築いた。また漢族社会の伝統に従い、学校を作って儒教を振興し、常に漢文化の保持に努めた。
建初13年(417年)2月に病死、享年67。次男の李歆が後を継いだ。
なお、唐の高祖李淵は武昭王の八世孫を称していたため、唐代に成立した『晋書』ではその諱を避けて字で李玄盛と記される。だが、宮崎市定の説によると唐室の李氏は異民族系の大野部(だいやぶ)が漢化した氏族であり[2]、武昭王との血縁関係は全くないと考えられている。ある説では、武昭王の子孫が北魏に滅ぼされると、何故か特別な計らいで西涼李氏は北魏の庇護を受けて、以降も続いたという。『新唐書』によると、唐代の詩人の李白は李暠の9代目の直系とされている。
宗室
[編集]子
[編集]子孫
[編集]『十六国春秋』の記述
[編集]- 『十六国春秋』(巻八 西涼記録)
李暠,字玄盛,隴西狄道人也。漢前將軍廣十六世孫,廣子侍中敢之後。李氏世為西州著姓,祖父弇,前涼武衛將軍,天水郡太守、安世亭侯。父昶,字中堅,幼有令名,世子侍講,年二十卒。暠,昶之遺腹子,少而好學,沈敏有器度。後涼龍飛二年,建康郡太守段業自稱涼州牧,號神璽元年,拜暠效穀令。二年,敦煌索仙等以暠温毅有恵政,推暠為敦煌郡太守。段業復暠鎮西將軍,領護西夷校尉。
庚子元年十一月,晋昌郡太守唐瑶移檄六郡,推暠為大將軍、涼公,領秦涼二州牧,大赦改年,追尊祖弇涼景公,父昶涼簡公,以瑶為征東將軍。二年正月,於南間起靜恭堂,以議朝政。圖讚自古聖帝、明王、忠臣、孝子、烈士、貞女,親為序頌,以作鑒戒。
五年正月,立泮宮,增高間學生四百人。四月,敦煌有葛縁木而生,作黄鳥之形。世子譚卒。九月,立第二子歆為世子。正月,大赦改年為建初元年。三月,宴於曲水,命群寮賦詩,暠親為之叙文,寫諸葛亮《訓歴》以戒諸子。
十三年正月,寝疾,願命長史宋繇曰:“吾終之後,嗣子猶卿子也,善相輔導。”二月,薨於恭徳殿,年六十。葬建世陵,諡昭武王,廟號太祖。初,暠為群雄所推,定千里之地,謂張氏之業不足成,河西十郡,歳月而一。既而傉檀入姑臧,蒙遜基宇稍廣,於是慨然著《述志賦》。初,河右不生楸槐。張之世,取秦隴植之,皆死,至是而酒泉言西北有槐生焉,乃作《槐樹賦》,又作《婦辛氏訸》自餘賦數十篇。