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武藏野弥助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
武ノ川弥助から転送)
武藏野 弥助
基礎情報
四股名 武藏野 弥助
本名 森山 竹藏
生年月日 1824年
没年月日 1859年
出身 信濃国水内郡蓮村
(現:長野県飯山市
身長 不明
体重 不明
所属部屋 武蔵川部屋
成績
現在の番付 引退
最高位前頭5枚目
データ
初土俵 1845年3月場所
入幕 1858年11月場所
備考
2019年6月1日現在

武藏野 弥助(むさしの やすけ、1824年文政7年)- 1859年安政6年))は、信濃国水内郡蓮村(現:長野県飯山市)出身の元大相撲力士。本名は森山 竹藏(もりやま たけぞう)。

来歴

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1824年信濃国水内郡蓮村(現:長野県飯山市)で生まれる。1845年3月場所で丹波川の名で初土俵を踏み、飯山藩主・本多氏の抱え力士とされた[1]1858年11月場所で新入幕を果たすが、僅か6ヶ月後の1859年7月、大坂巡業中に大名の息子が土俵上で放尿する姿を目撃し、息子を殴打した。当時は武士の権威がとても高く、それを笠に着て土俵上で乱暴な振る舞いをする者(特に大名の息子)も少なくない中で、大名の権威を恐れて周囲が黙認する中で武藏野は義憤を抑えられなかった。武藏野に殴打された息子は半身不随の重傷を負い、武藏野は即日手打ちに遭った[1][2][3]。36歳だった。また、師匠・武蔵川(大橋初五郎)も監督不行き届けによって年寄を罷免され、角界から永久追放処分となった(追放後は消息不明のまま、間もなく亡くなったと伝えられる)[4]

武藏野の没後から約70年後が経過した1927年8月、生家から程近い飯山市蓮飯駒に記念碑が建てられた。

出典

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  1. ^ a b 信濃力士伝1(不動産鑑定・コンサルティング | 内藤事務所有限会社・2008年3月23日記事)
  2. ^ 中村倭夫著「信濃力士伝 江戸時代篇」192p甲陽書房
  3. ^ 「秋津村誌」872P飯山市役所秋津公民館編
  4. ^ 7代目武蔵川大治郎墓碑の発見 Ⅲ(まにちゃんの歴史話・2011年5月24日記事)※9 大乗院武蔵川家墓碑の項に8代武蔵川の記述がある。

関連項目

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