久邇正子
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(正子女王から転送)
久邇 正子 (正子女王) | |
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久邇宮家、龍田家、梨本家 | |
1930年代撮影 | |
続柄 | 久邇宮朝融王第1王女子 |
全名 | 久邇 正子(くに まさこ) |
身位 | 女王 →(皇籍離脱) |
敬称 | 殿下 →(皇籍離脱) |
お印 | 琴[1] |
出生 |
1926年12月8日(97歳) |
配偶者 | 梨本徳彦(1945年 - 1980年、離婚) |
子女 |
龍田徳久 西坂豊子 菊地鑑代子 |
父親 | 久邇宮朝融王 |
母親 | 朝融王妃知子女王 |
久邇 正子(くに まさこ、1926年〈大正15年〉12月8日 - )は日本の元皇族。久邇宮朝融王と同妃知子女王の第1王女。多嘉王の第3王男子で伯爵梨本徳彦の元妻。旧名は、正子女王(まさこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。旧姓は、龍田、梨本。香淳皇后の姪、上皇の従姉、今上天皇の従伯母にあたる。
略歴
[編集]1926年(大正15年)12月8日午後1時3分、久邇宮朝融王と同妃知子女王の第1王女子として誕生[2]。御七夜の12月14日に「正子」と命名された[3]。1944年(昭和19年)12月13日、父宮朝融王の従弟である龍田徳彦伯爵[注釈 1]との結婚が勅許された[4]。翌1945年(昭和20年)4月22日に降嫁した[5]。その後、1946年(昭和21年)に長男・徳久、1950年(昭和24年)に長女・豊子、1952年(昭和27年)に次女・鑑代子の1男2女を儲ける。1966年(昭和41年)に夫婦揃って梨本宮守正王妃であった梨本伊都子[注釈 2]の依頼で同家の養子となり祭祀を継承し[6]、梨本姓を名乗る[注釈 3]。しかし、その後、夫の徳彦とは、1980年(昭和55年)に調停離婚し、以後は「久邇 正子(くに まさこ)」となる。
栄典
[編集]- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[7]
血縁
[編集]- 父:久邇宮朝融王
- 母:朝融王妃知子女王
- 兄弟:正子女王 - 朝子女王 - 邦昭王 - 通子女王 - 英子女王 - 朝建王 - 典子女王 - 朝宏王
- 元夫:梨本徳彦
- 子:
- 第1男子:龍田徳久
- 第1女子:龍田豊子(西坂豊喜の妻)
- 第2女子:龍田鑑代子(ホテルオークラ 菊地健郎の妻)
- 叔母 : 香淳皇后(昭和天皇皇后)
- 従兄弟 : 明仁上皇
- 従甥 : 今上天皇
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “【ボンボニエールの物語vol.48】続・皇族 お印の物語”. TSUGUMI JAPAN&CULTURE 日本美を守り伝える「紡ぐプロジェクト」公式サイト (2021年7月14日). 2022年12月13日閲覧。
- ^ 大正15年宮内省告示第31号(『官報』第4289号、大正15年12月9日)(NDLJP:2956439)
- ^ 大正15年宮内省告示第33号(『官報』第4294号、大正15年12月15日)(NDLJP:2956444)
- ^ 『官報』第5376号「宮廷録事」、昭和19年12月14日(NDLJP:2961879/3)
- ^ 昭和20年宮内省告示第5号(『官報』第5480号、昭和19年4月24日)(NDLJP:2961980)
- ^ 週刊新潮 2018 p.20-24
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。