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樽谷恵三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
樽谷明から転送)
樽谷 恵三
名前
カタカナ タルヤ ケイゾウ
ラテン文字 TARUYA Keizo
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1930年
出身地 広島県
没年月日 (2015-07-06) 2015年7月6日(85歳没)
選手情報
ポジション FW
ユース
1946-1949 広島高等師範附属中学
1949-1953 関西学院大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
全関学
1953-19xx 東洋工業
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

樽谷 恵三(たるや けいぞう、1930年 - 2015年7月6日[1])は、広島県出身のサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード(FW)

来歴

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長沼健木村現は、広島高等師範附属小学校(現広島大学附属小学校)からのチームメイト[2]。広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)、樽谷はセンターフォワードとして、右インナーFW長沼、右ウイングFW木村との超強力布陣で全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)の戦後初優勝に貢献[3]。3人のスピードは、当時の中学生レベルでは止められなかったと言われ、4試合で計21得点をたたき出した。決勝戦7-1のスコアは、戦後最多得点、及び大会最多得点差記録として現在も残っている。翌年国体も制覇。

この3人を含む広島高師附属中のメンバー8人が卒業後関西学院大学入りしサッカー部の黄金時代を築いた[4][5][6]。このメンバーと鴇田正憲らOBを加え全関学として1950年、全日本選手権大会(天皇杯の前身)で慶應義塾大学を6-1で降して優勝。1952年は主将を務めた。

1953年、東洋工業(現マツダ)へ。東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)に所属し、下村幸男銭村健次重松良典らと活躍し、1955年には全日本実業団でも初の決勝進出[7]田辺製薬に0-2と敗れ準優勝に終わったが翌1956年には田辺製薬の7連覇を阻み初優勝、チームに初の全国タイトルをもたらした[7]

東洋工業時代の1953年には母校・広大付属東千田高校のコーチとして、大橋謙三を擁し全国高校サッカー選手権優勝に導く[8][9]。史上初の両校優勝の相手は大阪府立岸和田高校で、1945年全国優勝した時のメンバー・木村現がコーチを務めていた[8]。敵味方で優勝を分け合った格好になった。

選手引退後は社員として東洋工業/マツダに勤めた。

所属クラブ

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出典

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  1. ^ 訃報 (PDF) 会報アカシア全国版第515号(p.15)(2017年1月1日) 2018年5月29日閲覧
  2. ^ 『栄光の足跡 広島サッカー85年史』49頁
  3. ^ 長沼健さん(39回)を追悼して” (PDF). アカシア会 (2009年1月). 2012年10月18日閲覧。
  4. ^ 『広島スポーツ史』広島県体育協会、1984年、p314
  5. ^ 東から届いた訃報”. 賀川浩の片言隻句 (2007年2月24日). 2012年10月18日閲覧。
  6. ^ サッカーあれこれ(7)”. 中条一雄の炉辺閑話 (2012年6月3日). 2012年10月18日閲覧。
  7. ^ a b 『栄光の足跡 広島サッカー85年史』56-59頁
  8. ^ a b 『栄光の足跡 広島サッカー85年史』55頁
  9. ^ 5月例会のご案内”. アカシア会 (2012年4月27日). 2012年10月18日閲覧。

参考資料

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  • 『栄光の足跡 広島サッカー85年史』 「広島サッカー85年史編纂委員会」 財団法人 広島県サッカー協会、2010年

関連項目

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