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樺山善久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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樺山善久
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正10年(1513年
死没 文禄4年11月24日1595年12月24日
改名 鍋千代(幼名)、幸久、善久、玄佐(法号
別名 太郎、助太郎
官位 安芸
主君 島津氏
氏族 樺山氏
父母 父:樺山広久、母:本田兼親の娘
兄弟 女(島津忠俊室)、善久、豊満丸
正室:御隅島津忠良の次女)
忠副忠助、娘(島津家久室)
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樺山 善久(かばやま よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将薩摩国守護大名島津氏の庶流樺山氏の8代当主。

生涯

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樺山氏は島津宗家4代忠宗の子である資久を祖とする家で、日向国樺山(現・宮崎県北諸県郡三股町)を領したことから樺山姓を名乗った一族である。善久は永正10年(1513年)、その7代目である樺山広久の子として誕生、島津宗家に仕えて、島津忠良の次女・御隅を正室とした。また和歌を好み、近衛稙家に拝褐して古今伝授を受け、飛鳥井雅綱から蹴鞠を習った。

天文8年(1539年)に主君・島津貴久市来の平良へ出陣した湯田口合戦の際、手負いと成りながらも敵将の小野左近を討ち取る功をなし、大隅国向島郷(のちの桜島)の松浦(現・鹿児島市桜島松浦町)と二俣(現・鹿児島市桜島二俣町)を賜った(後に藤野(現・鹿児島市桜島藤野町)に転封)。

天文17年(1548年)に本田氏が領内で争乱を起こすと、島津忠良から盃を受け自ら家臣100人を率いて生別府(おいのびゅう、現鹿児島県霧島市隼人町小浜)へ出陣し清水城を攻め落とした。その折、城から逃亡した本田薫親が城内の書院に「立訓し 槇の柱もわすれなよ 帰り来てあふ 世あるやと」と書き付けたのを見つけると、善久は「流れ出て 浮ふ瀬もなき 水茎の あとはかなくも 頼をくかな」と返歌を読み、それを書いた短冊を矢に結わえて、逃亡する本田勢へと追い付くとその矢を放った。これに感心した島津義久から褒美を受けている。

永禄5年(1562年)、北原氏の旧臣である白坂下総介が北原家再興を願い出た際は、善久が主君・島津貴久と下総介の仲介役を務めた。元亀元年(1570年)に大隅の小浜、堅利の替えとして横川へと移り住んだ。天正11年(1583年)、義久が病を患うと、日向国高岡の法華嶽薬師寺へ17日間籠って平癒の為の和歌を百首詠んでいる。文禄元年(1592年)、文禄・慶長の役において島津義弘朝鮮に渡海した際に、善久は老年のために出陣が許されなかった事に憤り、「君か為 名のため取りし 梓弓 八十余りの 身こそつらけれ」との歌を詠んでいる。

文禄4年(1595年)に死去。享年83。長男の忠副は弘治3年(1557年)に蒲生氏菱刈氏との戦い(纒頭の戦い)で討ち死にしたため、次男の忠助が跡を継いだ。

参考文献

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  • 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)
  • 『鹿児島県史 別巻』(鹿児島県)