横田康景
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(横田綱松から転送)
有海新昌寺にある横田康景の墓 | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 大永5年(1525年) |
死没 | 天正3年5月21日(1575年6月29日) |
改名 | 彦十郎(幼名)、康景/綱松 |
別名 | 十郎兵衛尉(通称) |
墓所 | 愛知県新城市の長篠古戦場/愛知県新城市有海の新昌寺 |
主君 | 武田晴信、勝頼 |
氏族 | 千葉氏支流臼井原氏、横田氏 |
父母 |
父:原虎胤 養父:横田高松 |
兄弟 |
康景、原盛胤、原重胤、原直胤、 桑原甚内?、初鹿野忠次室?、小幡昌盛室 |
妻 |
横田高松娘 向山氏 |
子 | 彦九郎、小才次、小陸奥、源介、尹松 |
横田 康景/綱松(よこた やすかげ/つなとし[1])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の家臣。足軽大将。
略歴
[編集]『甲陽軍鑑』に拠れば、父は下総国千葉氏の一族で、甲斐国に土着し武田氏に仕えたという足軽大将・原虎胤。
天文19年(1550年)の砥石城攻め(砥石崩れ)では武田家足軽大将である高松が戦死したために、横田高松の婿養子になり、家督を継いで武田晴信(信玄)に仕えた。『軍鑑』によれば足軽大将として騎馬30騎・足軽100人を与えられていたという。
永禄10年(1567年)8月に義信事件を受けて、信玄が家臣団に提出させた下之郷起請文にその名を連ねている[2]。
武田信玄の没後は勝頼に仕えた。天正3年(1575年)5月21日、長篠の戦いで戦死した。享年51。跡を五男の尹松が継いだ。
系譜
[編集]- 父:原虎胤(1497年 - 1564年)
- 母:不詳
- 養父:横田高松(1487年? - 1550年)
- 正室:横田高松娘
- 室:向山氏
- 五男:横田尹松(1554年 - 1635年)
- 生母不明の子女
- 長男:彦九郎(? - 1572年)
- 男子:小才次(? - 1575年)
- 男子:小陸奥(? - 1575年)
- 男子:源介(? - 1575年)
脚注
[編集]- ^ 江戸幕府の公式系図集『寛政重修諸家譜』では「綱松(つなとし)」。『新訂 寛政重修諸家譜』第7巻、350頁。
- ^ 平山優「横田康景」(戦国人名辞典編集委員会編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年)
出典
[編集]- 高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬『新訂 寛政重修諸家譜』(第7巻、続群書類従完成会、1965年)
- 平山優「横田康景」(戦国人名辞典編集委員会編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年、ISBN 978-4-642-01348-2)