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横井礼以

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
横井禮一から転送)

横井 礼以
横井 禮市
(よこい れいいち)
横井 礼以
(よこい れいじ)
生誕 横井 禮一
(よこい れいいち)

1886年10月1日
日本の旗 愛知県海部郡弥富村
死没 (1980-06-22) 1980年6月22日(93歳没)
日本の旗 愛知県名古屋市
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京美術学校
西洋画科本科卒業
著名な実績 洋画
民族 大和民族
活動期間 1911年 - 1980年
影響を与えた
芸術家
尾澤辰夫
西村千太郎

横井 礼以(よこい れいじ、1886年明治19年〉10月1日 - 1980年昭和55年〉6月22日)は、日本画家勲等勲四等名古屋造形芸術短期大学名誉教授社団法人二紀会名誉会員本名横井 禮一(よこい れいいち)。当初は横井 禮市(よこい れいいち)との筆名を用いた。なお、本名の「禮一」、および、かつての筆名の「禮市」の「禮」は「礼」の旧字体であるため、横井 礼一(よこい れいいち)、横井 礼市(よこい れいいち)とも表記される。なお、筆名の「礼以」については新字体を用いている。

緑ヶ丘洋画研究所主宰、二科会参与第二紀会委員、名古屋造形芸術短期大学造形芸術科教授などを歴任した。

概要

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愛知県海部郡弥富村出身の洋画家である[1][註釈 1]二科会で活動するとともに、第二紀会の結成に参画した。また、緑ヶ丘洋画研究所を主宰し、後進の育成に努めた。後年、病からの快癒を機に、画号を「禮市」から「礼以」に改めた。

来歴

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生い立ち

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1886年明治19年)10月1日愛知県海部郡弥富村にて生まれた[1]三重県第二尋常中学校を卒業すると[1][註釈 2]、上京した[1]白馬会洋画研究所の門を叩き[1]洋画を学んだ。1908年(明治41年)、東京美術学校に入学すると、西洋画科の本科にて学んだ[1]1911年(明治44年)、東京美術学校を卒業した[1]

画家として

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1914年には文展で初入選を果たし[1]、翌年の文展でも入選を果たすが、1917年からは一転して二科展に出品するようになる。1919年の二科展では二科賞を受賞するなど活躍し[1]1923年二科会会員に選出された[1][註釈 3]。しかし、眼病を患い、1928年に愛知県名古屋市に移住した。1930年には緑ヶ丘洋画研究所を設立し[1]、後進の育成に励んだ。

太平洋戦争の終結後、1947年熊谷守一宮本三郎らとともに第二紀会を創設した[1][註釈 4]。また、1954年には眼病からようやく回復し、それを機に画号を「禮市」から「礼以」に改めた[1]

1967年、それまでの功績が評価され、勲四等瑞宝章を授与された[1]1980年(昭和55年)6月22日、愛知県名古屋市で死去した。

人物

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本名の名は「禮一」であり[1]、それに因んで「禮市」と号した[1]。太平洋戦争後、眼病から回復したことを機に「礼以」と号するようになった[1]。なお、新しい画号の名の読み方は「れいじ」[2][3] であり、『横井礼以自選画集』や国立国会図書館はその表記を採用しているが[2][4]、「れいい」[1] と表記している資料もある。

略歴

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賞歴

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栄典

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著作

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単独での画集

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  • 横井礼以自選画集刊行委員会編『横井礼以自選画集』本編、三彩社、1960年NCID BA44046749
  • 横井礼以自選画集刊行委員会編『横井礼以自選画集』別冊、三彩社、1960年。NCID BA44046749
  • 横井礼以画『横井礼以展――生誕100年――遺族秘蔵作品による』名古屋画廊、1987年NCID BA45666534
  • 名古屋画廊編集『横井礼以画集』名古屋画廊、2016年NCID BB21572885

複数名での画集

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門弟

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脚注

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註釈

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  1. ^ 愛知県海部郡弥富村は、のちの愛知県弥富市に該当する。
  2. ^ 三重県第二尋常中学校は、のちに三重県立四日市高等学校の源流となった。
  3. ^ 二科会は、のちに公益社団法人二科会の源流となった。
  4. ^ 第二紀会は、のちに一般社団法人二紀会の源流となった。

出典

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関連人物

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関連項目

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関連文献

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