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槙坪夛鶴子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
槙坪多鶴子から転送)

槙坪 夛鶴子(まきつぼ たづこ、新字体:多鶴子、本名:光永 夛鶴子、1940年(昭和15年)5月28日[1] - 2011年(平成23年)9月24日)は、日本映画監督スクリプター

略歴

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日野夛鶴子として、広島県呉市に生まれる。1945年広島市への原子爆弾投下の際には、爆心地から25キロ離れた、当時の安佐郡久地村(現在の広島市安佐北区)の父親の実家で被爆する[2]1950年に大阪へ転居し、後に大阪府立北野高等学校に進む。この間、両親が離婚し、高校の頃から母の槙坪姓を名乗るようになる[3]

早稲田大学第一文学部演劇科卒業[4]。在学中に最初の結婚をし、出産する(後に離婚)[5]。24歳ころに関節リウマチを発症するが、27歳ころに俳優の米倉斉加年に紹介され、スクリプター(記録係)として民芸映画社で働くことになり、映画界に入る[5][6]。スクリプターとしては、テレビドラマ『黒部の太陽』(1969年)などに関わる[6]

1986年(昭和61年)、長野県養護教諭による性教育の取り組みをテーマに取り上げた『子どもたちへ いのちと愛のメッセージ』で監督デビュー[7]。以降、高校生の妊娠をテーマとした『若人よ いのちと愛のメッセージ』(1987年)、後天性免疫不全症候群(エイズ)を取り上げた『地球っ子 いのちと愛のメッセージ』(1993年)、『わたしがSuki』(1998年)、老人介護を取り上げた『老親 ろうしん』(2000年)、『母のいる場所』(2003年)、自閉症をテーマとした『星の国から孫ふたり』(2009年)と、身近な問題を劇映画として発表し続けた[8]

2011年9月24日、リウマチに伴う合併症のため死去[1]

出典・脚注

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  1. ^ a b 『現代物故者事典2009~2011』(日外アソシエーツ、2012年)p.558
  2. ^ 槙坪夛鶴子 (2000年12月23日). “われら六稜人【第38回】演劇の情熱…いま映画に シーン1 広島、原爆、大阪へ”. 大阪府立北野高校六稜同窓会. 2011年11月15日閲覧。
  3. ^ 槙坪夛鶴子 (2000年12月23日). “われら六稜人【第38回】演劇の情熱…いま映画に シーン2 北野時代、バレー、水泳、そして演劇”. 大阪府立北野高校六稜同窓会. 2011年11月15日閲覧。
  4. ^ この人に No.203 映画監督 槙坪夛鶴子さん」『Volo(ウォロ)』第396号、大阪ボランティア協会、2004年、2011年11月14日閲覧 
  5. ^ a b 福祉ネットワーク ともに生きよう 車いすの監督介護を撮る~監督 槙坪夛鶴子(まきつぼたづこ)~”. 日本放送協会 (2004年9月9日). 2011年11月14日閲覧。
  6. ^ a b 槙坪夛鶴子 (2000年12月23日). “われら六稜人【第38回】演劇の情熱…いま映画に シーン3 自由舞台、結婚そしてスクリプターの世界へ”. 大阪府立北野高校六稜同窓会. 2011年11月15日閲覧。
  7. ^ “ルポルタージュ2011 映画監督・槙坪さんの遺志継いで”. 信濃毎日新聞: p. 34. (2011年11月13日) 
  8. ^ 追悼 槙坪夛鶴子監督”. Cinema journal. 2011年11月14日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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