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楚渓春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
楚溪春から転送)
楚渓春
プロフィール
出生: 1896年光緒24年)
死去: 1966年9月12日
中華人民共和国の旗 中国北京市
出身地: 清の旗 直隷省保定府蠡県
職業: 軍人・政治家
各種表記
繁体字 楚溪春
簡体字 楚溪春
拼音 Chŭ Xīchūn
ラテン字 Ch'u Hsi-ch'un
和名表記: そ けいしゅん
発音転記: チュー シーチュン
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楚 渓春(そ けいしゅん)は、中華民国の軍人、中華人民共和国の政治家。山西派(晋軍)出身の国民革命軍軍人である。晴波

事績

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直隷陸軍小学堂、清河陸軍第一予備学校を経て、保定陸軍軍官学校に入学する。1918年民国7年)に卒業し、閻錫山率いる山西軍(晋軍)に加入した。1923年(民国12年)、陸軍第20師主任参謀兼軍官教育団大隊長に昇進している。1925年(民国14年)、臨時執政府衛隊旅参謀長となり、まもなく山西省に戻って教導団教育長となった。[1]

閻錫山が易幟した後の1927年秋に、国民革命軍第3集団軍第7軍少将参謀長に任ぜられ、後に左路軍前敵総指揮参謀長となった。1928年(民国17年)、北平中将憲兵司令に任ぜられ、同年末に第125旅旅長となる。1930年(民国19年)11月、第27師師長に昇進し、さらに北平警備司令兼平綏路護路司令となった。1931年(民国20年)、晋軍第4軍副軍長に昇進する。1934年(民国23年)から陸軍大学特別班第2期で学んだ。1936年(民国25年)8月に陸軍少将銜を、翌年5月には陸軍中将銜を授与された。[1][2]

日中戦争(抗日戦争)勃発後、楚渓春は山西民族革命同志会高級幹部委員会委員となり、さらに第2戦区参謀長に任ぜられた。1941年(民国30年)3月、第8集団軍副総司令に昇進し、さらに第2戦区北区軍総司令に任ぜられた。日中戦争終結後、大同で日本軍の降伏受諾官を務めている。1947年(民国36年)9月、国民政府主席東北行轅総参議兼瀋陽防守司令官に任命される。同年12月、河北省政府主席に任ぜられ、さらに北平督察総監や保定綏靖公署主任も兼任した。[1][2]

1949年(民国38年)1月、楚渓春は傅作義の北平無血開城に従った。中華人民共和国建国後は、政務院(後の国務院)参事、第2期から第4期の中国人民政治協商会議全国委員会委員、中国国民党革命委員会(民革)中央委員兼秘書長、全国文史資料研究委員会委員などを歴任した。[1][2]

1966年9月12日、北京市にて死去。享年71。

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  1. ^ a b c d 徐主編(2007)、2189頁
  2. ^ a b c 劉主編(2005)、2322頁。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
孫連仲
河北省政府主席
1947年12月 - 1949年1月
次代
(廃止)