楊白
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(楊柏から転送)
楊 白(よう はく、生没年不詳)は、中国後漢末期の人物。張魯に仕えた。小説『三国志演義』では楊柏とする。
略歴
[編集]『三国志』本文に記述はなく、裴松之が注釈に引いた魚豢『典略』に僅かな記録が残っている。
それによると、張魯に身を寄せた馬超は兵を借り、失地回復を図って涼州を攻めたが、勝利は得られなかった。そして建安19年(214年)、張魯に対して不満を抱いた馬超は、楊白たち張魯の配下からの圧力も受けた結果、漢中から出奔し、その後蜀に走った。当時の楊白らの思惑については、「彼〔馬超〕の能力を非難しようとした」[1]とするほか、「馬超の能力に嫉妬した」と解釈するものもある[注釈 1]。
また『資治通鑑』および郝経『続後漢書』は楊白を楊昂と見なし[5]、さらに後者は『三国志』霍峻伝に見える「楊帛」も同一人物だとしている[6]。
三国志演義
[編集]小説『三国志演義』では、張魯の佞臣楊松(架空の人物)の弟として登場する。張魯が馬超に娘を娶わせようとすると、「馬超が妻子を(曹操によって)失ったのは、自らの行いのせいです。主公(張魯)はそのような人物に娘を娶らせてよいのでしょうか」と反対し、取り止めさせている[注釈 2]。このため馬超は激怒し、楊柏を殺そうとする。しかし楊柏はこれを知ると、兄と相談して馬超を殺す機会を窺うようになる。
劉備に攻撃された劉璋が張魯に援軍を求めてきた際、楊柏は救援に向かった馬超の監視役として付けられる。しかし馬超が諸葛亮の策略により劉備に降伏したため、最後は手土産代わりに殺されてしまう。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ この箇所に該当する原文は「又魯將楊白等欲害其能」。『康熙字典』の「害」の項目には「害猶言患之也。又《屈原列傳》上官大夫與之同列爭寵,而心害其能」とある[2]。例文として引かれた箇所に該当する和訳は、「上官大夫(中略)は屈原と地位をひとしくし、君寵を争うて、心ひそかにその才能を憎んだ」[3]。張寅瀟は、原文の「欲害其能」は意味が通じず、かといって『資治通鑑』の改案「數害其能」もまた不自然であるため、「心害其能」として解すべきだとする[4]。
- ^ この台詞の元となったのは、『三国志』馬超伝の注に引く『典略』の「親を愛せない人が、他人を愛することなどできましょうか」という記述であるが、当の発言者は不明。ここでいう「親を愛せない」とは、曹操が張魯を攻める挙動を見せたことで、馬超をはじめとする関中諸将たちが疑いを抱き反乱を起こしたため、潼関の戦いより前に入朝していた父の馬騰とその一族が連座して処刑されたことを指している。
出典
[編集]- ^ 陳寿著、裴松之注『正史三国志 5』井波律子訳、ちくま学芸文庫、1993年、p. 181。
- ^ “害”, 康熙字典網上版, オリジナルの2024年1月23時点におけるアーカイブ。 2024年1月23日閲覧。
- ^ 司馬遷『史記6 列伝二』小竹文夫、小竹武夫訳、ちくま学芸文庫、1995年、p. 62。
- ^ 張寅瀟「《三国志集解·関張馬黄趙伝》校補」『内江師範学院学報』第1期、2021年、59-63、p. 63。
- ^ (中国語) 『資治通鑑』巻67建安十九年, ウィキソースより閲覧, "馬超知張魯不足與計事,又魯將楊昂等數害其能,超內懷於邑。"
- ^ 『続後漢書』巻16馬超伝. 中国哲学書電子化計画. 2024年5月6日閲覧, "楊昻, 陳志作楊白, 查霍峻傳作楊帛。" 「昻」は昂の異体字。
参考文献
[編集]- 『三国志』巻36馬超伝注引『典略』